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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第97回 絵堂宿
【えどうじゅく】
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銭座が置かれ、木喰五行が逗留し、幕末維新史の舞台ともなった要衝
山口県美祢郡美東町大字絵堂
2014年01月24日

萩から下関へ通じる赤間関あかまがせき街道を南へ五里のところに絵堂宿はある。逆の赤間関(現下関市)からみれば、山陽道を吉田宿(現同上)で分れ、北東に山中を進んで秋吉台あきよしだいを経て一四里の地にあたる。ここから道を北西にたどれば日本海の要港瀬戸崎せとざき(現長門市)、秋吉台の中途より平原ひらばら(現美東町)を経由すれば、中世末以来大市の開設地として知られる大田市おおだいち(現同上)へも至る交通の要地である。

天保年間(一八三〇‐四四)編纂の「防長風土注進案」は絵堂宿の規模を、上段宿二軒・中段宿五軒、常備の馬六頭、人夫一〇人と記す。しかし「尤道路之難渋、暑寒之凌、或ハ病気等差閊之儀も有之候に付、御仕法を以人夫三十七人、馬十六疋御手当被成置、代り々々ニ相勤」と、道の困難さなどから配慮されていたことも記す。

絵堂村の発展は寛文年間(一六六一‐七三)の赤間関街道の開通に起因する。村名の由来を「注進案」は「昔、当村より赤村入口ニ金目摺と申処ニ本尊地蔵菩薩を安置せし古き絵馬堂あり、夫を片とり絵堂と号候」とし、古い絵馬堂があったことによるという。

さらに「元来当駅之義ハ、一円の沼竹藪等ニ而、人馬の通路難相成所柄、いつの比か杉山某と申人、只今市中ニ有之候新川を堀切、悪水を除き、夫より田畠悉く開け」たとし、その後の発展についても「貞享年中新宿御取立相成、町家追々出来仕候ニ付、始而絵堂宿と相唱候由、其後宝暦年中惣名の小野村を絵堂村と一円の惣名に唱へ」たと記す。

古くはあか郷(阿賀郷とも)と称していた赤村の枝郷であった小野村が独立し、村内に絵堂宿が設置されて町家が出来、村の中心が絵堂地区となったため、小野村から絵堂村に改称したものであろう。

村は農業を主としたが、山間部のため人口の割には田畠が少なく、米の他に麦・大豆・栗・黍・烟草・木綿・松板・炭焼などで生計を立てていた。さらに「宿筋御通路も有之ニ付、宿屋・酒屋・醤油屋・油屋其外小商人等も有之、中已下ハ駅役目人馬送リ役等第一ニ相働候、其間々々農業をも仕且々渡世仕候」とあって、宿駅に付随する諸業を兼ねる者もいた。

寛政九年(一七九七)八月一五日、秋吉村(現秋芳町)の広谷ひろたにを出立した廻国聖木喰行道(五行明満)は、赤間関街道を萩へと向かった。時に八〇歳。途中絵堂村の北河内きたごうちに立寄り、百姓弥兵衛の世話を受け、同所の薬師堂へ三週間ほど滞在した。この間本尊の脇侍として日光・月光両菩薩立像を彫り、この像は現在でも所の人々により守られている。

その後の木喰の足どりは不明だが、以後三年ほどは長門・周防の地を巡錫し、五〇余体の彫像をあちこちに残している。

絵堂宿の北半里の所にある銭屋ぜにやという小集落には、寛永一四年(一六三七)に長門の銭座が設けられた。これは前年に幕府が長州藩をはじめ、水戸・仙台など八藩に対して寛永通宝の鋳造を許可したことによる。鋳造事業は一年の更新契約であったが、幕府は寛永一七年一一月二二日に新銭過剰につき諸藩に鋳造停止を命じた(毛利四代実録)。

しかし銭貨鋳造は利益の多い事業であるため、その後も藩の黙認のもとに私鋳を続けた。幕府の探索が厳しくなると、藩は責任を村民に転嫁し、村を焼打にした。銭屋にはこの焼打を物語るかのように、半焼のはぜの大木が枯死をまぬがれて現存する。盛時には銭屋千軒と称されるほど賑わったが、幕末には二〇軒ばかりに減じていた。

古代より長門国は豊前・備中とともに周防の鋳銭司じゅぜんし(現山口市鋳銭司すぜんじに遺跡がある)に銅を供給したが(延喜式)、その主産地は美祢みね郡内の阿賀郷(赤郷)であった。村内各地には今でも金山の廃坑が分布し、銭屋のすぐ南にも穴窪と呼ばれる古間歩ふるまぶ(鉱坑)がある。

絵堂宿の南に屹立する標高五四三メートルの権現ごんげん山は、古くは白山と称し、山腹に白山大権現の小祠がある。中世以来、美祢郡内の修験霊場の一で、村民の厚い尊崇をうけてきた。「注進案」には「此白山と申ハ希代の霊山ニシテ天気打続きし折ニも俄ニ震動する事あり、果而二、三日を過すして風雨あり、亦風雨打続きたる時もやはり山鳴震動して数日を待たずして快晴する事、昔しより今猶諸人の知る所也」とあって、麓の人々は天候予知の対象としていたようである。

近世には萩藩の狼煙場が置かれ、「注進案」は「秋吉経塚山より請継、見渡凡一里半位、道法凡二里半位、阿武郡当嶋雲雀山へ見渡凡一里位」とし、秋吉村にある経塚きょうづか山の狼煙場を受けて、阿武あぶ郡の雲雀ひばり山(現旭村)へ伝えていた。

慶応元年(一八六五)正月、山県狂介(有朋)に率いられた奇兵隊は、藩政を握る保守恭順派の排除を目的に、赤間関街道を萩へと進軍した。一行は主戦派の諸隊とともに美祢郡大田・絵堂、阿武郡佐々並ささなみ(現旭村)などで恭順派と交戦、撃破した。世にいう大田・絵堂の戦いで、明治維新を目前にした長州藩における、勤皇・佐幕両派争闘のドラマである。

 

(Z・H)

旧赤間関街道に沿って街村が形成される絵堂地区


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初出:『月刊百科』1979年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである