勝山は浦賀水道に面して入江が発達し、沖合約一キロには漁礁であり、防波堤の役目もになう
浮島は平安時代初期に成立した『高橋氏文』に景行天皇行幸の伝承が載る。景観の特異さで知られていたらしく、延宝二年(一六七四)に訪れた徳川(水戸)光圀は『甲寅紀行』に「岩石嶢屹、秀奇にして多景」と記している。カチヤマも室町時代から史料にみえ、文明一八年(一四八六)九月初旬頃、京都
江戸時代初期の勝山村の村高は一〇七石余、永荒や川欠を引いた残高は一〇五石余で、内訳は田方八石余(免五ツ)・畑方四三石余(免三ツ八分)・新山畑五斗余(免二ツ三分)・舟役五二石余(免三ツ)である(万治二年「佐倉藩勝山領取箇帳」吉野家文書)。村高の約半分を舟役(海高)が占めていることから知られるように、房総の海付村のなかでもとりわけ漁業への依存度が高い村であった。房州捕鯨の最大拠点であり、『捕鯨志』は房州捕鯨場として加知山村と南の
元禄一六年の海嘯とは同年一一月二三日未明の地震による津波で、『楽只堂年録』は、当時勝山村に藩庁(陣屋)を置き、当地方一帯に領地をもっていた酒井氏の勝山領浜方(浦方)の被害を、流家二九六軒(うち一軒は寺)、潰家七〇軒、流失船一九七艘、田畑潮押砂入五町四反余、死者一三七人(男一一五、女二二)、損牛四、流網無数、岡方の被害を潰家一七三軒、田畑山崩川欠一〇町一反余、死者一一三人(男七、女一〇六)、損牛馬五と記録している。この地震・津波で房総全域に甚大な被害があったが、総じて津波の被害が大きく、浜方は壊滅状態に陥ったところが少なくない。
捕鯨以外の漁業の戦国期までの様子も史料を欠いて不明である。しかしいずれにしても商品化に結びつく漁業は、江戸開府以後であろう。正保三年(一六四六)には以前からの課役として、勝山浦を中心とした近隣七ヵ浦(勝山・岩井袋・吉浜・保田・久枝・高崎・小浦)で、年に海請運上金一三〇両・海士運上金三〇両・水主役金四〇両を負担しており、この年さらに買運上金三〇両を加えられた。以後買運上金には増減があり、延宝六年(一六七八)には五ヵ浦(勝山・岩井袋・保田・吉浜・久枝)で八一両を課せられていたが、そのうち勝山浦は三八両二分を負担していた。うち九両余は北接する
元禄地震・津波から九〇年たった寛政五年(一七九三)の村高とその内訳は、万治二年当時と大差なく、田方の年貢は定免で米一〇俵(寛政三年は旱損で二俵二斗納め)、畑方・舟役を合せた年貢は永九貫七三三文、このほか浜方運上を春・秋に六両二分ずつ納めている(宝永七年龍島村が地先海面の漁業権を獲得したため自村分のみ)。家数二九九・人数一千五二二(うち男八二二)。東接する
浮島にある浮島神社の祭礼での鯨歌は鯨念仏と称され、捕鯨を祝うとともにその供養であろうとされる。当時
(H・M)
初出:『月刊百科』1996年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである