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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第79回 勝山
【かつやま】
72

房州捕鯨の拠点
千葉県鋸南町
2013年04月19日

勝山は浦賀水道に面して入江が発達し、沖合約一キロには漁礁であり、防波堤の役目もになううき島がある。古くは加知山・賀知山と書き、カチヤマとよんだ。近世には勝山村と表記されたが、カチヤマとよび、明治に入って再び加知山村に戻っている。しかし明治二二年(一八八九)の町村制施行で誕生した新しい村は勝山かつやま村を名乗り、昭和三〇年(一九五五)鋸南きょなん町が成立したのちは大字勝山となった。
浮島は平安時代初期に成立した『高橋氏文』に景行天皇行幸の伝承が載る。景観の特異さで知られていたらしく、延宝二年(一六七四)に訪れた徳川(水戸)光圀は『甲寅紀行』に「岩石嶢屹、秀奇にして多景」と記している。カチヤマも室町時代から史料にみえ、文明一八年(一四八六)九月初旬頃、京都聖護院しょうごいん道興どうこうは、那古なご浦(現館山市)から南下して野島のじま崎(現白浜町)を眺め、再び北上して加知山で「駒はあれとかちよりそゆくかち山の里にこはたそ思ひやらるる」と詠み、「河名」(現鋸南町元名もとな)へ向かった(『廻国雑記』)。

江戸時代初期の勝山村の村高は一〇七石余、永荒や川欠を引いた残高は一〇五石余で、内訳は田方八石余(免五ツ)・畑方四三石余(免三ツ八分)・新山畑五斗余(免二ツ三分)・舟役五二石余(免三ツ)である(万治二年「佐倉藩勝山領取箇帳」吉野家文書)。村高の約半分を舟役(海高)が占めていることから知られるように、房総の海付村のなかでもとりわけ漁業への依存度が高い村であった。房州捕鯨の最大拠点であり、『捕鯨志』は房州捕鯨場として加知山村と南の岩井袋いわいぶくろ村(現鋸南町)をあげ、両村ともに慶長(一五九六‐一六一五)以前すでに捕鯨術が紀州から伝えられていたが、元禄一六年(一七〇三)の海嘯のために捕鯨に関する旧記を失い、それ以前の事蹟は文献では確かめられないと記している。
元禄一六年の海嘯とは同年一一月二三日未明の地震による津波で、『楽只堂年録』は、当時勝山村に藩庁(陣屋)を置き、当地方一帯に領地をもっていた酒井氏の勝山領浜方(浦方)の被害を、流家二九六軒(うち一軒は寺)、潰家七〇軒、流失船一九七艘、田畑潮押砂入五町四反余、死者一三七人(男一一五、女二二)、損牛四、流網無数、岡方の被害を潰家一七三軒、田畑山崩川欠一〇町一反余、死者一一三人(男七、女一〇六)、損牛馬五と記録している。この地震・津波で房総全域に甚大な被害があったが、総じて津波の被害が大きく、浜方は壊滅状態に陥ったところが少なくない。

捕鯨以外の漁業の戦国期までの様子も史料を欠いて不明である。しかしいずれにしても商品化に結びつく漁業は、江戸開府以後であろう。正保三年(一六四六)には以前からの課役として、勝山浦を中心とした近隣七ヵ浦(勝山・岩井袋・吉浜・保田・久枝・高崎・小浦)で、年に海請運上金一三〇両・海士運上金三〇両・水主役金四〇両を負担しており、この年さらに買運上金三〇両を加えられた。以後買運上金には増減があり、延宝六年(一六七八)には五ヵ浦(勝山・岩井袋・保田・吉浜・久枝)で八一両を課せられていたが、そのうち勝山浦は三八両二分を負担していた。うち九両余は北接する龍島りゅうしま村(現鋸南町)の分で、これは当時自村の地先海面だけでなく、龍島村の海に対しても漁業権を専有していたためである(以上、平井家文書、『鋸南町史』など)。
元禄地震・津波から九〇年たった寛政五年(一七九三)の村高とその内訳は、万治二年当時と大差なく、田方の年貢は定免で米一〇俵(寛政三年は旱損で二俵二斗納め)、畑方・舟役を合せた年貢は永九貫七三三文、このほか浜方運上を春・秋に六両二分ずつ納めている(宝永七年龍島村が地先海面の漁業権を獲得したため自村分のみ)。家数二九九・人数一千五二二(うち男八二二)。東接する下佐久間しもさくま村(現鋸南町)の村高は寛政四年には一千三五〇石余、田方の年貢は米八一七俵、畑方は永一八貫三八五文であり、文政一〇年(一八二七)の家数二一五・人数一千一〇四。村高で一二倍強の下佐久間村を家数・人数において上廻っていることは、当時の漁業がいかに多くの人々の生活を支え得たかを示している。寛政五年には船数九六を数え、浦付小漁船八九艘・江戸通船生魚船四艘・五下船二艘・渡船一艘であった。小漁船のうちかなりの船は年々六月一〇日前後から八月中旬まで鯨突を行なった(以上、「勝山村明細帳」平井家文書、「下佐久間村差出帳」「下佐久間村農間商渡世取調書」富永家文書など)。捕鯨には捕獲から捌きまでを扱う組が組織されており、勝山浦元締醍醐新兵衛の醍醐組の場合、明治二年(一八六九)には大組一七艘・新組一六艘・岩井袋組二四艘で構成され、乗組員五〇〇余名と出刃組・釜前人足などの陸廻り七〇余名が従事していた。鯨は浮島沖の槌鯨で、醍醐組は脂肪皮・骨・筋をとり、また鯨油を江戸の問屋へ運んだ。肉は船方と村人で分け合ったという(『鋸南町史』)。

浮島にある浮島神社の祭礼での鯨歌は鯨念仏と称され、捕鯨を祝うとともにその供養であろうとされる。当時大黒だいこく山南麓には勝山捕鯨を確立したといわれる初代醍醐新兵衛定明の墓があり、龍島地内板井いたいやつの厳島神社には鯨塚がある。

 

(H・M)

浦賀水道に臨む房州勝山は、かつて捕鯨の拠点として栄えた


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初出:『月刊百科』1996年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである