岩国から柳井へ瀬戸内海を左に眺めながら南下すると、海上に一際大きな屋代島が迫ってくる。屋代島は周防大島とも呼ばれ、柳井の手前大畠で本土に最も接近する。このあたりの海峡を鳴門あるいは瀬戸と称し、鳴戸・鳴渡・迫戸・迫門とも書かれてきた。近世、行政的には神代村(現玖珂郡大畠町)に属したが、一般には大島の鳴門・大畠の鳴門と呼ばれてきた。
『古事因縁集』に「周防大島大畠ノ瀬戸ハ阿波ノ鳴門ノ如ク、潮ノ満干ニ鳴音天地ニ響キ、水曲大ニシテ車ヲ廻スガ如シ」と記され、鳴門の由縁と情景をうかがうことができる。
鳴門は古くから多くの人々によって歌に詠まれてきた。『万葉集』巻一五に、
大島の鳴門を過ぎて再宿を経て後に、追ひて作る歌二首
これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に 玉藻刈るとふ海人娘子ども
波の上に浮寝せし夜何ど思へか 心悲しく夢に見えつる
とある。また『後撰和歌集』巻九に
人しれず思ふ心はおほしまの なるとはなしに歎くころかな
『続古今和歌集』第一八に、題しらずとして、
思ふことなほしき波に大島の なるとはなくて年の経ぬらむ
『夫木和歌抄』巻二一に、藤原在氏の歌として、
おほしまのなみだのかけぢに汐満ちて けふは鳴門に泊りぬるかな
など多く、『万葉集』に倣ってか、大島の鳴門と詠まれたものが多い。
『万葉集』に「名に負ふ鳴門の渦潮」と詠まれたように、早くから瀬戸内航路の難所として知られていた。『古事因縁集』の記す満干時の激しい潮流に加えて、多くの岩礁があったらしく『玖珂郡志』は、刑三郎礒、中礒、重石、テマリ岩、坊主石、メウト岩、通り洲などをあげている。
『陰徳太平記』はその様子を、
大畠ノ東ナル迫戸ハ、阿波ノ鳴門ニ待シテ、龍宮ノ西門ニ当リ、山陽西海ノ万水此所ニ朝宗シ、怒濤奔流蹴呉天陥巫峡、氷岸横飛、雪崖傍射、両岩相撃遑々遉噤X、水渦盤旋タル、其深キ事無底ノ谷ニヤ通スラン、坤輪際ニヤ至ラン、鳥惧龍驚、舟人目眩、漁子心寒、阿波鳴門ニ勝ハスルトモ劣ルベキニ非ズ、
と描写している。康応元年(一三八九)三月、厳島に詣でた足利義満一行は、筑紫をさしてさらに下向したが、鳴門夜航の危険を避けて神代海上で停泊し一夜を過した後に通っている(「鹿苑院殿厳島詣記」)。
鳴門を西航する船にとって、おおよそ真西に当る伊保庄の峰に、漁民や航海者の信仰を集める般若寺(現熊毛郡平生町)がある。『巌邑志』によれば、用明天皇の皇女般若は筑紫真野から都に向う途中、この鳴門で遭難し、亡くなったという。用明天皇は般若の死を悲しみ、伊保庄の峰に御陵を築き、般若寺を建立したと伝える。般若寺は般若姫の菩提を弔うのみでなく、鳴門を航行する船の目標となって安全に通過できるようにとの願いによって、伊保庄の峰が寺地に選ばれたという。『巌邑志』は「所モ多キニ彼山ニ建給事ハ、永世鳴門ノ迫門ヲ越船ノ水標ト為シ、可乗塩路ヲ知ラシメテ、盤渦逆浪並海中ノ大皷ニモ不当、末代舟人ノ安穏ニ此迫門ヲ可通トノ御恵ニテ」と記す。
般若寺には毎年一二月晦日の夜、鳴門の底より龍燈が登るという(『防長風土注進案』)。
鳴門の両岸に位置する神代の鳴門神社や、小松(現大島郡大島町)の飯の山に鎮座して鳴門で水死した者の供養に建てられたと伝える五重の小石塔のある大多麻根神社にも、般若姫伝説や龍燈伝説があり、漁民や航海者の信仰を得ている。かつて般若寺とともに、鳴門航行の目標としての役割を担っていたものと思われる。
鳴門の西端部に周囲一里ほどの笠佐島(現大島郡大島町)が浮ぶ。天明の頃の開発と伝え、現在二十数戸の小集落がある。全戸が浄土真宗で遠崎(現玖珂郡大畠町)の妙円寺の檀家。「かんまん宗」の島といわれ、方角・日柄の禁忌が全くなく、神棚や位牌も安置しない。火葬に付したあとの骨の一部を西本願寺の大谷本廟へ納めるだけで、墓もつくらないという。因みに「かんまん」とは「気にしない」「かまわない」という意味の方言で、浄土真宗の宗風をさしたという。
鳴門を隔てた大島と本州との交流は、小松・柳井・大畠などが玄関口となった。近世、小松湊では常設の萩藩の御用船一艘のほか、大勢の小船持ちがその役割を担っていた。これら海に生活をした人々にとって、最も危険であった鳴門に、現在では大畠と小松を結ぶ大島大橋が架けられ、鳴門遭難の悲しい話もなくなった。
(M・K)
初出:『月刊百科』1980年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである