日本歴史地名大系ジャーナル知識の泉へ
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第60回 秩父
【ちちぶ】
53

武蔵武士の故郷
埼玉県
2012年01月27日

埼玉県立博物館に武蔵武士大河原時基が鎌倉時代末の嘉暦四年(一三二九)、播磨国広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)に奉納した一振の太刀が蔵されている。国宝となっているこの太刀はしのぎ造、庵棟いおりむねの刀身は長さ八二・四センチ、元幅は三・一センチで、なかごの表裏に次のような銘がある。

(表)広峯山御剣願主武蔵国秩父郡住大河原
  左衛門尉丹治時基於播磨国完粟(ママ)郡三方西造進之
(裏)備前国長船住左兵衛尉景光
  作者進士三郎景政
  嘉暦二二年<己巳>七月日

これによれば、この太刀は武蔵国秩父郡を本領(名字の地)とする大河原時基が、播磨国穴粟しそう三方西みかたにし(現兵庫県波賀町)の地でこれを造らせ、当時同国随一の武神として崇敬されていた広峯神社に奉納したもので、作者は備前国長船おさふね(現岡山県長船町)の刀工景光・景政であった。

大河原時基は、丹治姓を名乗っているように武蔵七党の一つたん党の一族で、秩父郡三山さんやま郷(現埼玉県小鹿野町)を本拠とした中村氏から分れて同郡大河原おおがわら郷(同東秩父村)に居を構え、同所を名字の地とした大河原氏の嫡流とみなされている。承久の乱後、中村(大河原)家泰が地頭として三方西に入部、次第に勢力を拡大していった。正応三年(一二九〇)八月二日の「関東下知状」(中村文書)には三方西小野おの村に在家一宇をもつ中村馬允光時の名がみえ、光時は波賀はが城を築き以後天正五年(一五七七)まで代々が城主であったという。

武蔵国に本領をもつ武士を一般に武蔵武士といい、その頂点に立っていたのが、平将恒(将常)の系譜につながる秩父氏である。秩父氏は将恒の曽孫重綱のとき武蔵国留守所総検校職に任じられ、一族には次男の系統でありながら重綱から家督を継いだ河越かわごえ氏、さらに文治元年(一一八五)河越重頼が源義経に縁坐して処刑されると総検校職に任じられた畠山重忠の畠山氏のほか、江戸氏・豊島氏・葛西かさい氏・千葉氏などがいる。一方、武蔵国留守所総検校職の支配下にあった中小武士団は武蔵七党と総称された。『平家物語』巻五に「畠山が一族、河越・稲毛・小山田・江戸・葛西、其他七党の兵ども」とあるのが、その関係性をよく表現している。ただし、この七党の数え方は一定ではなく、丹党のほか横山・猪俣・野与・村山・西・児玉の六党を合わせて七党とするほか、野与党・村山党をのぞいて私市党・綴党を加える数え方などがある。

秩父氏一族や諸党に属して鎌倉時代に活躍した武蔵武士は、史料で確認できるものだけでも九七名に上るとされ、丹党大河原時基もその一人である。丹党は桑名・中村(上下)・大河原・安保あぼ高麗こま・加治・小鹿野おがの横瀬よこぜ榛沢はんざわなど計四五氏で構成され(「丹党系図」『諸家系図纂』)、秩父郡のほか入間いるま郡・高麗郡・賀美かみ郡・児玉郡に勢力を有し、ほぼ同地域に混在していた児玉党と競い合う存在であった。なお彼ら武蔵武士の生活ぶりが知られる史料はほとんどないが、『発心集』の「武州入間河沈水の事」や『男衾おふすま三郎絵詞』がその一端を伝えている。

秩父に三十三観音霊場(札所)が開かれた時期は不明だが、大河原氏が三方西に入部したことと関係があると考えられている。現在の第三二番札所小鹿野町法性ほっしょう寺で所有する長享二年(一四八八)の秩父札所番付の奥書には、播磨国書写しょしゃ円教えんきょう寺(現姫路市)の性空のことが強調して記されている。また秩父各札所開設の伝承にも性空をあげるものが多い。円教寺は西国第二七番札所で性空が開いたものであるが、大河原氏が地頭となった三方西とは地理的に近い位置にある。おそらく大河原氏が円教寺に入信したことが秩父札所開設の契機となったものと思われる。長享の札所番付が中村氏の居館があったと考えられている秩父大宮の定林じょうりん寺を一番とし、以後周辺に及ぶ順番となっていることもこれを証拠だてているとみてよいだろう。定林寺の南方約八〇〇メートルには秩父神社がある。

大河原時基が広峯神社に太刀を奉納したのに先立つ正中二年(一三二五)、時基はその父と思われる大河原入道沙弥蔵蓮とともに、刀身に「秩父大菩薩」と刻んだ太刀(現御物)を同じく三方西で景光・景政に造らせ、遠く故郷の地の氏神秩父神社に奉納している。さらにこの御物太刀と併せて同神社に奉納されたとみられる元享三年(一三二三)銘景光作の短刀(国宝)も現存している。この短刀は、戦国期上杉謙信の差料さしりょうであったことから謙信景光の異称があるが、御物太刀と同じく刀身に「秩父大菩薩」の刻銘をもち、作者を同じくし、製作年も接近していることから、本来揃いのものであったと考えられている。これら三振の太刀と短刀は、大河原時基らが故郷秩父と新領地播磨の名神に一族の繁栄と安泰を祈願して奉納した一連のものであったといえるだろう。
一九九三年春、短刀は埼玉県の所有に帰し、約七〇〇年ぶりに二振揃って県立博物館で展観されることになった。

 

(H・M)


Googleマップのページを開く

初出:『月刊百科』1993年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである