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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第12回 安渡 
【あんど】
5

青森県むつ市大湊浜町一帯
2008年01月25日

 斧形をした下北半島の、刃と柄の接する部分がむつ市。その陸奥湾側最奥部(大湊湾)の北西海岸は天然の良港である。半島の最高峰、八七八・六メートルの釜臥山が南東に急勾配で陸奥湾に落ちこみ、さらに砂洲の芦崎が南西から北東に向けて海に突出、安渡湾という入江をつくっているのだ。旧日本海軍が北辺の護りとして大湊要港部を置き、今も海上自衛隊基地のある所以だが、この地は近世、入江から北にかけて穏やかな漁村の安渡村であった。
 寛政五年(一七九三)下北の浦々をめぐり、南西からこの安渡村へ入った菅江真澄も『おくのうらうら』で次のように記している。

宇曽利河をわたり宇多邑、河森邑をくれば、りうごう(林檎)のその茂たり。釜臥山をまつる下居のみやあり。安渡の入江を見れば、城ヶ沢よりさし出たる蘆崎とて、糸引わたしたるやうに二里ばかり海中によこたはり、あら波をさかふれば、ささら波たちて湖にひとしう、船もやすげにかけて泊もとめ、冬は鱈つり、春は鯡のあびき(網引)に、里とめ(富)り。

 地名が史料の上で最初にたしかめられるのは鎌倉時代。日本海に面した津軽の十三湊(とさみなと)(現市浦村)を根拠とし、日本海海運や蝦夷地との交易による利益を背景に台頭した得宗被官の安東(藤)氏は、下北半島の全域にあたる糠部(ぬかのぶ)宇曽利(うそり)郷にも進出した。新渡戸文書に正中二年(一三二五)九月一一日付安藤宗季譲状があり、安東一族の宗季が津軽の鼻和郡とともに宇曽利郷の散在所領を嗣子「いぬほうし」に与え、また安渡を含む一部を女子の「とらこせん」へ一代限りとして譲っている。

(前略)たゝし(但し)うそりのかう(宇曽利郷)のうちたや(田屋)たなふ(田名部)あんと(安渡)うち(浦カ)をは、によし(女子)とらこせんいちこ(一期)ゆつりしやう(譲状)あた(与)うるところなり(後略)

 次いで、近世の下北は田名部通(たなぶどおり)と呼ばれる盛岡の南部藩領で、田名部代官所に属した。下北の村々は主として材木と海産物を出したが、『奥々風土記』によると安渡村に檜山はない。
 漁業の方は享保年間(一七一六‐三六)に南部藩が課役対象となる漁船を調べた際、「上浦」に認定している。また寛政一〇年(一七九八)には、村の家五〇軒ばかり、船は下北で最高の二四隻をもっていた。漁民の多くは陸奥湾や津軽海峡で漁し、煎海鼠(いりこ)・鰊・鱈・帆立貝を出した(笹沢魯羊『下北半島史』)。

 藩は下北の檜を重要な財源と考え、寛文年中(一六六一‐七三)、一三ヵ所の檜山に留山制をしき、材木を下北の諸港から積み出した。正保二年(一六四五)の「御絵図御書上之湊並浦」では、安渡村の北隣の大平(おおだいら)村が藩の積出港とされている。大平湊の三軒の大宿(船問屋)には百石積以上の船を扱う権限が与えられたが、安渡湊にはそれ以下の天当船(てんとうせん)と呼ばれる小船しか扱えぬ小宿三軒のみが認められていた。
 しかし、商船は次第に大平湊より安渡湊に寄るようになり、田名部代官大巻秀詮の編著による寛政年間(一七八九‐一八〇一)成立の『邦内郷村志』には、安渡湊は「田名部第一番湊、(中略)商船自春至秋、渡海往来三四度、(中略)長崎中国諸国之船来」と記される。また菅江真澄が「里とめり」とした様子を、蝦夷地の探検で知られた松浦武四郎は『東奥沿海日誌』に「人家百軒ばかり、船問屋、小商人、旅籠屋等なり、随分繁華の処也」と描く。この発展は大平湊にとって好ましくない。両湊の間に争いも生じた。明和五年(一七六八)には、安渡湊の問屋が無届で三河の船に鰮〆粕二四俵を積みこんで発覚、船扱いを差し止められた。安渡の問屋は、大平の三問屋宛に「誤証文」を入れ、許されている。

此度私儀風と心得違仕〆粕弐拾四俵三州半田村忠三郎船・同国彦蔵船右両艘へ隠密積入候処、湊方御手代中より御見咎に預り何共申訳無御座誠迷惑千万奉存候、依而此間数々御申訳尽候得共一円御承知不成下候、押而御願申上候

 この安渡(あんど)村、『東奥沿海日誌』は「安土」と書き、『大日本地名辞書』は安渡と書いて「あんと」と読む。津軽の深浦(現深浦町)の古名という安東(あんど)浦、岩手県大槌湾の安渡(あんど)(現大槌町)、奈良県の安堵(あんど)村など、「あんど」の地名はあちこちにある。また地元では地名の由来を、貴人(源義経ともいう)がのがれきて隠やかな入江にいたり「安堵」したからと伝える。『大湊町誌』は「安らかに渡る=良港」というのは俗説とし、「安東氏」に由来するとする。
 明治三年、安渡村は戊辰戦争に破れた会津若松の松平氏移封による新設の斗南藩領、翌年大平村と合して大湊町(同六年には大湊村)となり、両湊も合わせて斗南港と称された。同一一年には旧に復すが、翌年安渡村は大湊村と改称、以後「安渡」の地名は失われる。港も明治三五年に水雷団、同三八年要港部が設けられて様相が一変、今はわずかに釜臥山を奥の院とする兵主神社(大湊浜町)に残る、回船問屋や海運業者の海上安全を祈願した奉納の絵馬や手洗鉢に往時がしのばれる。

(K・T)


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