斧形をした下北半島の、刃と柄の接する部分がむつ市。その陸奥湾側最奥部(大湊湾)の北西海岸は天然の良港である。半島の最高峰、八七八・六メートルの釜臥山が南東に急勾配で陸奥湾に落ちこみ、さらに砂洲の芦崎が南西から北東に向けて海に突出、安渡湾という入江をつくっているのだ。旧日本海軍が北辺の護りとして大湊要港部を置き、今も海上自衛隊基地のある所以だが、この地は近世、入江から北にかけて穏やかな漁村の安渡村であった。
寛政五年(一七九三)下北の浦々をめぐり、南西からこの安渡村へ入った菅江真澄も『おくのうらうら』で次のように記している。
地名が史料の上で最初にたしかめられるのは鎌倉時代。日本海に面した津軽の
次いで、近世の下北は
漁業の方は享保年間(一七一六‐三六)に南部藩が課役対象となる漁船を調べた際、「上浦」に認定している。また寛政一〇年(一七九八)には、村の家五〇軒ばかり、船は下北で最高の二四隻をもっていた。漁民の多くは陸奥湾や津軽海峡で漁し、
藩は下北の檜を重要な財源と考え、寛文年中(一六六一‐七三)、一三ヵ所の檜山に留山制をしき、材木を下北の諸港から積み出した。正保二年(一六四五)の「御絵図御書上之湊並浦」では、安渡村の北隣の
しかし、商船は次第に大平湊より安渡湊に寄るようになり、田名部代官大巻秀詮の編著による寛政年間(一七八九‐一八〇一)成立の『邦内郷村志』には、安渡湊は「田名部第一番湊、(中略)商船自春至秋、渡海往来三四度、(中略)長崎中国諸国之船来」と記される。また菅江真澄が「里とめり」とした様子を、蝦夷地の探検で知られた松浦武四郎は『東奥沿海日誌』に「人家百軒ばかり、船問屋、小商人、旅籠屋等なり、随分繁華の処也」と描く。この発展は大平湊にとって好ましくない。両湊の間に争いも生じた。明和五年(一七六八)には、安渡湊の問屋が無届で三河の船に鰮〆粕二四俵を積みこんで発覚、船扱いを差し止められた。安渡の問屋は、大平の三問屋宛に「誤証文」を入れ、許されている。
この
明治三年、安渡村は戊辰戦争に破れた会津若松の松平氏移封による新設の斗南藩領、翌年大平村と合して大湊町(同六年には大湊村)となり、両湊も合わせて斗南港と称された。同一一年には旧に復すが、翌年安渡村は大湊村と改称、以後「安渡」の地名は失われる。港も明治三五年に水雷団、同三八年要港部が設けられて様相が一変、今はわずかに釜臥山を奥の院とする兵主神社(大湊浜町)に残る、回船問屋や海運業者の海上安全を祈願した奉納の絵馬や手洗鉢に往時がしのばれる。
(K・T)