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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第19回 根利山 
【ねりやま】
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消えたヤマの村
群馬県利根郡利根村
2008年08月08日

 群馬県の北部は山岳地帯で、利根村も(みつ)ケ峰(二〇三二メートル)・(かさ)ケ岳(二二四六メートル)・(すず)ケ岳(二三八八メートル)・皇海(すかい)山(二一四三・六メートル)や赤城(あかぎ)連山に囲まれて、村の大部分は山地である。そのうち栃木県上都賀(かみつが)足尾(あしお)町との境にある皇海山の西麓一帯を根利山と通称する。平安時代、利根郡内に京都鳥羽(とば)安楽寿(あんらくじゅ)院領「土井出(つちいで)笠科(かさしな)庄」があり、東限は「練山」とされていたが、この練山は根利山のことであろうと考えられている。根利山の南方には根利川が流れ、上流に根利集落がある。

 資源にとぼしい日本の産業の近代化にとって国内鉱山の開発は重要で、国策として推進されたが、当初は江戸時代以来稼行してきたヤマに依存することが多かった。足尾町にある足尾銅山もその一つで、別子(べつし)と並んで日本屈指といわれたが、一方銅を含んだ廃水によって渡良瀬(わたらせ)川を汚染、鉱毒事件を引き起こしたことはよく知られている。

 根利山から流れ出す栗原(くりばら)川の源流近く、標高約一千三〇〇メートルに砥沢(とざわ)とよばれる一角がある。足尾銅山(足尾鉱業)を経営する古河鉱業株式会社が、ここに銅山で使う用材などの伐り出しのため、根利林業所を設けたのは明治三一年(一八九八)である。同林業所は主として根利山中から伐採した用材を県境を越して足尾町の銀山平(ぎんざんだいら)まで輸送する業務を担当した。同年業務が始まったが、事務所や飯場の建設、道路工事、そして最大の難工事は用材・生活用品の輸送のための鉄索道の建設であった。同三四年第一回の国有林払下げを受けて伐採を始めたが、銀山平から砥沢の手前の権兵衛(ごんべえ)まで索道が通じたのが同三五年、そして基地となる砥沢まで延長されたのは同三七年である。
同三九年には北方にひろがる古河鉱業の私有林(平河山林)開発のための平河索道が通じて、(たに)川上流の平滝(ひらたき)にもう一つの基地が建設された。大正期に入ると平滝からさらに北上して広河原(ひろがわら)線(大正一〇年)と唐沢(からさわ)線(同一二年)、また砥沢から八丁(はつちょう)峠を越えて不動(ふどう)沢に至る不動沢線(同一二年)などが完成して最盛期を迎えた。こうして四〇年間にわたって伐採を続けたが、昭和一三年(一九三八)に至り、用地大半の伐採を終えたため撤退することになり、最高時約一千五〇〇人(大正一四年当時の従業員数約八三〇)もいた根利山も同一四年閉山、再び無人の地となった。

 大正一五年発行の『利根郡誌』や根利山会発行の『利根の歴象』によれば、大正一三年度の根利林業所の作業区域(東西三里、南北五里)内における一カ月の生産高は次の通りである。(一)用材(角材・丸太材・支柱材)三万一千六八〇石、(二)薪三千七〇〇棚、(三)木炭(黒消炭・白消炭)一二四万貫、(四)矢板一四万四千枚、(五)木羽板(屋根葺用)六千二〇〇束、(六)下駄材三万八千束。根利山の山林の樹齢は二〇〇年から三〇〇年のものが多かったといい、伐採後は整地のうえ、松・杉・柏などを植林した。木材の搬出は牛馬は使わず、木曽や大和十津川(とつかわ)方面から熟練の木屋がきて担当した。溜池を作り用材を押し出す「鉄砲流し」、山の斜面を利用して滑り落す「修羅落し」、土橇道を使って人力による「橇曳き」などの方法があり、このほかトロ道(軌道)、軽便索道や谷の深い所からの捲き上げなどがあった。

 明治三一年以降、根利山へ移住した人達は漸次増加、宿舎のほか様々な施設が整えられていた。神社や寺院(説教所)、診療所も設けられ、山中に新しい一大集落が出現した。こうしたなか大きな問題になったのが、従業員子弟の義務教育の問題である。砥沢は当時、赤城根(あかぎね)村大字根利のうちであったが、根利とは往来が不可能で、何とか麓の村との連絡が可能なのは、(あずま)村に属する平滝であった。そこで東村の世話で平滝に分校を置き、さらに平滝と砥沢の中間に位置する津室(つむろ)に仮教室を設けて、砥沢から通学することになった。こうして明治四二年、平滝(在校生六一名)・砥沢(同五〇名)の二教室が開校した。以後閉校(平滝は昭和一三年、砥沢は同一四年)になるまでここで教育が行われたが、両校とも最高一三〇人台の生徒数があったという。
なお根利山に移住した人々の出身地は、足尾を初めとする栃木県、利根・沼田を中心とする群馬県のほか、富山・石川・新潟・福島県などにわたっていた。閉山後、全体の八割は足尾銅山に入ったという。

 根利山の北方、片品(かたしな)戸倉(とくら)の山中にも昭和一〇年代、大規模な鉱山集落が形成されていた。標高約一三〇〇メートルの通称紅葉平(もみじだいら)といわれる所で、三菱鉱業根羽沢(ねばざわ)鉱山があり、同六年から金が採掘された。最盛時の同一七年頃には従業人数一千人以上に達し、宿舎のほか浴場・マーケット・郵便局・駐在所・劇場などが設置されており、高等科のある小学校(最盛時の在校生二五〇名余)も開校していた。しかし第二次世界大戦の拡大により従業員も次々に出征、同一八年戦争遂行上の政府の方針により閉山され、集落は廃虚となった。

(H・M)


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初出:『月刊百科』1986年12月(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。