柞原八幡宮で行なわれてきた神事斎会のうち、最大の神事は放生会であった。放生の業は『梵網経』『金光明経』に作善の一つとされ、捕獲された鳥類魚類を山野池沼に放って供養する仏会である。日本でも仏教の流布に伴って殺生禁断と放生の思想が普及した。『政事要略』によると養老四年(七二〇)の隼人の反乱平定後、宇佐八幡神の託宣により隼人を殺した報いとして放生会を奉仕するようになったと伝える。柞原八幡宮の放生会は、正慶元年(一三三二)正月一一日の賀来社年中行事次第(柞原八幡宮文書)に八月一日から神事が始まり八月一四日御行幸とあり、神事の中心をなす生石浜への神幸が盛大に執行された。このため祓川は放生川ともよばれた(『豊後国志』)。
生石浜は天喜元年(一〇五三)三月一九日の由原宮座主僧救円解状(柞原八幡宮文書)に「生石御浜」とみえ、救円は閏月の灯油を負担する料田がないので、浜に隣接する「生石迫下生石里卅三坪」にある常荒田二反を料田にしたいと申請している。乾元二年(一三〇三)には、生石浜放生会神事を勤仕する国東郷の船が生石への渡海中難破したため、還御を延引せざるを得ないとの風聞を耳にした在国司の行念が、まず神事を遂行し、一六日の還御は無事行なえるようにすることなどを請けあっている(同年八月一五日「豊後国在国司沙弥行念請文」同文書)。建武四年(一三三七)七月二七日、守護代稙田寂円が生石浜放生会以下の郷役の催促を約束しており(「豊後守護代稙田寂円請文」同文書)、本来国司が管掌すべき一宮の祭礼が守護によって執行されている。室町中期には、御旅所
江戸時代になると、寛永一一年(一六三四)府内に入部した日野吉明が放生会の賑いをみて生石浜に新市を開いたという。浜の市とよばれる市は放生会の八月一四日を挟んで一一日から七日間開かれた。のちには八月一一日から九月一日に至る二〇日間が市日となり、府内藩は出店の運上を免除して銀二〇〇貫を貸与したという(『豊府指南』『雉城雑誌』『府内藩日記』)。市の敷地は現在の火王宮東側の
最も人出が多かったのは放生会の日と、毎年ではないが花火の興行される日であった。藩営の花火は市の終了前の八月下旬か、市が日延べしたときは九月初旬に行なわれた。『府内藩日記』によると、宝永四年(一七〇七)九月のときは塩硝三貫五〇〇目・硫黄三斤四毛・中苧三五〇目・胴薬一二〇目・樟脳一斤半・鉄一貫六〇〇目などを費し、その準備には一ヵ月有余もかけている。花火の人夫は六四七人であった。元禄三年(一六九〇)には六万人、宝永元年には五万人の人出があったといい、府内藩領の人口が四万人ほどと考えられているので誇張はあるにせよ、大変な賑いであった。
市の振興策として遊女・芸子屋の営業や
現在大分港は埋立が進み、臨海工業地帯が形成されているが、九月一四日から二三日まで柞原八幡宮の仲秋祭が行なわれ、浜の市の例祭として市民に親しまれている。
(K・T)
初出:『月刊百科』1994 年7 月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである