茨城県日立市は東を太平洋に臨み、西は多賀山地の丘陵となっていて、南北に細長い市域である。市域のほぼ中央、西寄りの地にあたる助川町および助川町一‐五丁目は、古代の史料にみえる「助河」「助川」の遺称地で、江戸時代には水戸藩領で助川村といい、現在の国鉄日立駅東側の海岸にまで及ぶ広い地域で、中世-近世には「介川村」とも記された。
古く『常陸国風土記』は久慈郡の項に
此(密筑の里)より艮のかた廿里に助川の駅家あり。昔、遇鹿と号く。古老のいへらく、倭武の天皇(日本武尊)、此に至りましし時、皇后、参り遇ひたまひき。因りて名づく。国宰、久米の大夫の時に至り、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく。俗の語に鮭の祖を謂ひて、須介と為す
と記し、日本武尊の伝説とかかわる遇鹿の地名伝承、また鮭にかかわる助川の地名伝承を述べる。遇鹿は南方の現会瀬町、相賀町付近、河は北方を流れる宮田川に比定されている。
助川駅は陸奥へ向かう官道に養老二年(七一八)頃設けられたと考えられるが、史料では『日本後紀』弘仁三年(八一二)一〇月二八日条に助川駅が廃止されたことが出ている。その位置は南方の台地上の地に比定される。
また『尊卑分脈』に、奈良時代の参議藤原巨勢麿の子右兵衛佐弓主の次男助川は、母が常陸国久慈郡の人とある。当地土佐の崖下にある八幡清水は、源義家が奥州出陣のとき矢を突刺して水を得、兵たちの渇きをいやした泉との所伝を有する。県北部に多い義家伝説の一つである。
常陸国北部は、源氏一統に連なる佐竹氏が古代末期に土着して以来、徳川家康によって慶長七年(一六〇二)秋田へ国替させられるまで、その勢力下にあった。佐竹知行目録には応永二五年(一四一八)「介川村半分佐竹民部丞跡 宍戸弥四郎入道」と見える。丘陵地東麓に蓼沼館の跡があり、『石神組地理志』には長さ一二〇間余、横一七間余と記される。
佐竹氏は四代秀義が源頼朝に従って鎌倉御家人となり、その後、戦国の荒波を乗りきって、義宣の代には豊臣秀吉と結び、文禄四年(一五九五)には五四万八千石を領するまでになった。その繁栄は政治的・軍事的手腕のほか、常陸北部の金山経営による財力を無視できない。常陸は当時、越後・佐渡・陸奥につぐ産金額を示していた。助川では大峯と呼ばれる丘陵上の金山(標高三五〇メートル)が、『石神組地理志』に「古昔金をほりし所。享保延享の頃迄鑿試し事あり」と記される。
「古昔」がどこまでさかのぼるかは不明だが、江戸時代の『水府志料』は南方の金沢村(現日立市金沢町一帯)の項で「飯盛山、立割山、妙見山と云所より金を産す。佐竹氏の時、飯盛尤多く出せしと云。」とあって村名もこれによると述べており、この地域の金の産出と佐竹氏との関係をうかがわせる。
江戸時代の助川村は、『水府志料』によると村の南北一里一〇町余、東西三里余で、文化(一八〇四‐一八)初め頃は戸数三一〇、南北に通る岩城 -相馬街道の宿駅であった。文化九年の『国用秘録』によると市場もあった。石灰石を焼いて石灰をつくり(加藤寛斎随筆)、砥石も産出している(宝暦四年の「介川砥御運上証文」ほか)。
文政七年(一八二四)五月、藩領北部の大津村(現北茨城市)に突然イギリス人一二名が上陸、驚いた水戸藩や幕府は海防への努力を強化した。藩主徳川斉昭は天保七年(一八三六)、一万石を知行する家老の山野辺義観を新設の海防惣司に任じ、助川村内の大平山(現助川町五丁目)に城堡を築いて館主とした。同九年第一期工事が完了し、侍二八騎・足軽若党八七人・手廻雑人一三二人が城堡に入った。
助川海防城跡(県指定史跡)は海を望む高台にあり、中世の城郭跡を利用したもので、本丸の海上見張櫓は小さいながら天守のような感じであったという。家中子弟の教場である養正館や銃砲教練場・馬場などもつくられ、同一二年の第二期工事完了で総面積六八町四反余となった。安政三年(一八五六)には海防農兵二組一〇〇人が配置されている。
しかしこの城堡も幕末の元治元年(一八六四)、水戸藩党争の天狗・諸生の乱で焼失してしまった。
(K・I)
初出:『月刊百科』1983年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである