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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第85回 鶴見山
【つるみさん】
78

災禍と恵の山
大分県別府市
2013年07月19日

別府湾からみる別府市街、後背の連山の風景は、四季折々に相貌を変えるが、いつも柔和である。連山を鶴見山といい、別府湾から狭小な扇状地を経てそそり立つ山容は秀麗で、『豊後国志』は主峰鶴見岳(一三七四・五メートル)について、「西対由布、秀抜不相譲」と評している。鶴見岳の北にうち山(一二七五メートル)、伽藍岳(硫黄山とも。一〇四五・三メートル)と続き、内山の東に大平おおひら山(扇山とも。七九二メートル)がそびえる。火男火売ほのおほのめ神社元宮のある鶴見岳頂上からの展望も素晴らしく、西方に由布ゆふ岳、南西に九重くじゅう山、南に祖母そぼ山・阿蘇山がみえ、東は別府湾、豊予ほうよ海峡(速吸瀬戸)から四国の山山を望見することができる。

鶴見山は山陰系の角閃安山岩からなる鐘状火山で、山頂溶岩の流出は一二〇〇‐一五〇〇年前頃とされている。『三代実録』貞観九年(八六七)二月二六日条によると、山頂には三つの池があり、その一つの泥水は赤、ほかの二つは黒と青であったという。そしてこの年に起こった噴火について「去正月廿日池震動す。その声雷の如く、俄にして臭硫黄の如く、国内に遍満す。磐石飛乱すること、上下数なし。石の大なるは方丈、小なるは甕の如し。昼は黒雲蒸し、夜は炎火熾し。沙泥は雪ぎ散り、数里に積む。池中にはもと温泉出で、泉水沸騰す。自ら河流と成り、山脚の道路、往還通ぜず。温泉の水、衆流に入り、魚の酔死するは千万数なり。其の震動の声三日を経歴す」(原漢文)と伝えている。三池の一つの赤池は、鶴見岳山頂から北西方向、標高一二〇〇メートルの地点に窪地として残り、その北東二〇〇メートルには硫気口があって、いまも盛んに噴気が出ている。
火男火売神社がいつ頃から祀られていたかは不明だが、「嶽ノ宮旧記」(『太宰管内志』所収)には、霧島きりしま山の神が鶴見岳に降臨し、宝亀三年(七七二)二月に国司紀鯖麿が社を建立したのが始まりであると記されている。二神は嘉祥二年(八四九)六月に従五位下を授けられた(『続日本後紀』)。また先の噴火の報告をうけた朝廷は、貞観九年四月三日、二神を鎮謝するため国司に大般若経の転読を命じ、八月一六日火男神に従五位上、火咩(火売)神に正五位下を授けている(『三代実録』)。『延喜式』神名帳には「火男火売神社二座」と記されている。

別府市域のほとんどは、古代には豊後国速見はやみ朝見あさみ郷に属していた。『続日本紀』宝亀三年一〇月一〇日条によると、前年の五月朝見郷の山が土砂崩れを起こし、水は一〇日余も流れず、その後この水がせきを切って流れ、百姓四七人が土石流によって死亡、家四三軒が埋没したという。狭小な扇状地を北からひや川・無田むた川・平田ひらた川・春木はるき川・さかい川・朝見川と多くの川が東流し、しかもそれらの勾配がきついため、台風などの大風雨による土石流がしばしば各河川を流れ下り、村々を襲ったことがこのほかにも記録されている。慶長三年(一五九八)七月には、大雨のため鶴見岳の山頂が崩壊、土石流が発生して境川と朝見川を流れ下り、別府村・浜脇はまわき村などを襲い海岸の別府村久光ひさみつを壊滅させた。文禄五年(一五九六)七月の別府湾岸の大地震では「瓜生島」海没の伝承を生んだが(『月刊百科』一九九四年三月号「沖の浜」参照)、同様に久光集落壊滅は久光島海没として長く伝えられた。江戸時代には享保一四年(一七二九)、天保九年(一八三八)、嘉永三年(一八五〇)、安政二年(一八五五)に大洪水があり、寛政一一年(一七九九)、嘉永七年に地震があった。嘉永七年の地震では、別府村のある商家では大黒柱も含めすべての家屋の柱が折れたと記録されている(『家宝珍事記』)。

一方、別府市域は温泉の湧出が豊富で、「速見湯」の名で古代から知られていた。『伊予国風土記』逸文によると、速見湯を引いて湧き出たのが伊予の「石湯」(現愛媛県松山市の道後温泉)であるという。『豊後国風土記』には「赤温泉」「玖倍理湯井」などの名で取り上げられており、赤湯あかゆ泉は血の池地獄のこととされている。血の池地獄は別府市野田の柴石しばせき温泉の東の谷間にあり、赤色の摂氏七七度の熱水の池(面積一一六〇平方メートル)である。『和漢三才図会』は「赤江地獄と名のる者有り。方十余丈、正赤なる湯、血の如く流れて谷川に至る。未だ冷定せざる処、魚有りて常に躍り遊ぶ」と紹介している。泉質は酸化鉄を主体とする。玖倍理湯くべりゆ井の所在地については諸説あるが、鉄輪かんなわ温泉中にあったとする説が有力である。
現在、別府市内の温泉源は三六四八孔を数え、利用している源泉は二三四一孔に及ぶという。これは全国総数の約二割である。
別府温泉郷での病気治療は横灘よこなだ湯治と称し(横灘は別府市域をさす江戸時代の通称)、豊後・豊前の農村から農閑期に来る者が多かった。近代に入ると温泉治療を目的とした病院・療養所が次次と開設され、現在も国立重度障害者センター、国立療養所西別府病院、九州大学温泉治療研究所、肢体不自由児社会施設の別府整肢園などがある。また一九七三年に別府市が身体障害者モデル市に指定され、様々な福祉施設が設置されている。

 

(H・M)

鶴見岳は別府市街の西方にそびえる鶴見連山の主峰


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初出:『月刊百科』1995年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである