八尾の真観寺といえば、京都南禅寺六八世であり、南禅寺金地院の開基でもある大業徳基禅師の開いた寺として知られるが、その所在地の近くに、近世には同じく亀井村に属し、東亀井・西亀井とともに亀井村を構成する一集落であった跡部という地域がある。
跡部は、大和川付替え(宝永元年)以前には、その本流であった長瀬川に近く、従って長瀬川に沿う古代の主要道、「渋河路」(『続日本紀』天平勝宝八年四月一五日条)にも近接するという、水陸交通の要衝に位置した。『和名抄』のあげる河内国渋川郡五郷の一に跡部郷(訓は「阿止倍」)があり、『延喜式』神名帳に載る渋川郡跡部神社は、この郷に祀られていた。
『日本書紀』用明天皇二年四月条に、大連物部守屋が大和から別業のある「阿都」に退いたとある。この阿都は跡部のことと推定されており、物部氏はおそらく跡部付近を本拠とし、のち大和へ本拠を移し、この地には別業を構えたものであろう。『旧事本紀』の天神本紀には、物部氏の祖饒速日尊が天降る時に供奉した者のなかに、「船長跡部首等祖天津羽原、梶取阿刀造等祖大麻良、船子倭鍛師等祖天津真浦」(下線は筆者)などがいたことを記している。物部の一族がこの地域の舟運を支配していたことを反映した伝承とみることができる。
用明天皇二年四月、崇仏廃仏問題から蘇我氏と物部氏の関係が険悪になったとき、前述のように物部守屋は別業のある阿都に退いた。その数日後用明天皇は没し、皇位継承をめぐって蘇我・物部の対立はついに爆発、蘇我馬子の軍は守屋攻撃に出征する。『書紀』に「秋七月に、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅さむことを謀る。」とあり、続けて皇子や群臣の名を列挙したのち、「倶に軍兵を率て、志紀郡より、渋河の家に到る。」と記す。渋河の家は先の阿都の別業を指していよう。これに対して守屋は、「親ら子弟と奴軍とを率て、稲城を築きて戦ふ。是に、大連、衣揩の朴の枝間に昇りて、臨み射ること雨の如し。其の軍、強く盛にして、家に填ち野に溢れたり。皇子等の軍と群臣の衆と、怯弱くして恐怖りて、三廻却還く。」と奮戦する。
しかしこのとき軍の後に随っていた廐戸皇子(聖徳太子)が、ひょっとしたら敗れることもあるのではないか、「願に非ずは成し難けむ」とのたまい、白膠木(ぬで・勝軍木)を斬り取り、素早く四天王の像を作って頂髪(タブサ)に置いて、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に寺塔を起立てむ」と誓をたて、蘇我馬子もまた願をたてて反攻に移った。守屋は結局衣揩で戦死するが、彼が阿都・衣揩を最後の地として戦ったのは、この地域が物部氏の本拠であったからであろう。衣揩は跡部の北方に位置する衣揩(旧渋川郡、現東大阪市)と同所とみてよい。
守屋が亡んだあと、摂津国に四天王寺が造られるが、その際、「大連の奴の半と宅とを分けて、大寺の奴・田荘とす」と『日本書紀』崇峻即位前紀にみえる。『四天王寺御手印縁起』に四天王寺の寺田として河内国渋川・若江両郡の地が多くあげられている。縁起の記載をすべて信ずることはできないが、物部氏の勢力・領地を考える参考とすることはできよう。
亀井村に東接して、同じく跡部郷に属したとみられる太子堂村があった。村の名ともなった太子堂は、大聖勝軍寺といい、聖徳太子廟(叡福寺)を上の太子とよぶのに対し、下の太子という。廐戸皇子が戦況一時不利となったとき、この地の椋樹の陰に隠れ難を逃れたと伝え、鎌倉末期成立とみられる『聖徳太子伝記』(山城醍醐寺蔵)に、
今ニ神妙櫚木ト申也、依其時ノ御約束、世静テ後ニ建立一伽藍、為シ玉ヘリ彼霊木ノ所依也、本尊ハ太子十六歳ノ御影也、河内国神妙櫚木ノ太子堂ト申テ、至マテ末代之今有之律院也、太子末代マテ報シ彼木恩事有口伝、
と記されている。天文二二年(一五五三)三条西公条が吉野詣の帰途、太子堂に参詣、『吉野詣記』三月一一日条に、「これより神廟むくの木のある寺にまいりて、かの木のもとををがみ、本堂へまいり、太子の御影開帳はなきよしかたりしかど、案内しれる人、ひそかに申てひらきけり、」とある。
亀井と太子堂を結ぶ奈良街道沿いには、守屋のものと伝える墳墓のほか、守屋に関係する伝えをもつ首洗池・鏑矢塚・弓塚などが並んでいる。
(H・M)
現在の八尾市跡部地区は古代の河内国渋川郡跡部郷の遺称地
初出:『月刊百科』1984年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである