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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第3回 転換期の考古学研究

    ── 弥生・古墳時代の畿内を一例として ──(2)

2007年04月06日

II 弥生時代の畿内

(1)弥生時代の開始年代
 水田稲作がはじまってからの時代を弥生時代とよぶ。AMS(加速器質量分析法)による炭素14年代法でその開始年代は五〇〇年ほども早められたが、いまも否定的立場からの議論はつづいている。しかし、まず第一に理解されねばならないのは、北部九州の首長墓に副葬された前漢鏡で比定できる弥生時代中期後半よりも以前の年代は、それを決定できるだけの強力な考古学的なデータと方法がない、という事情である。
 年輪年代法によってだされた弥生時代中期末と前期後半の年代が、炭素14年代法のそれと大きな齟齬をきたさないという事実を、私は重視したい。異なった方法で算出された年代のおおよその合致は、各々の方法の妥当性を示唆していると思う。ところが、年輪年代法については不可思議な事態が起こっている。すなわち、中期末の一点が前一世紀中ごろだ、というのは短時日のうちに学界での市民権を得たが、前期後半が前五世紀ごろだという成果は大方の研究者が古すぎると感じたのか、一顧だにされなかったし、いまも変化はない。まったくもって理解しがたい事態だ。同一の研究方法で提出された年代の一つは採用するが、もう一つは無視するというのは非論理的としかいいようがない。
 弥生時代開始年代の遡及で、新しい課題がいくつか派生したが、つぎの二点を指摘しておく。第一、水田稲作の伝播に要した時間の経過である。北部九州に伝わった水田稲作は、おおよそ一〇〇年ぐらいの短期間に、畿内地域を越えて愛知県あたりにまで一気呵成にひろまった、というのが既往の通説的解釈だった。しかし、炭素14年代法によると水田稲作は、畿内地域には前五~六世紀ごろに伝播したことになって、それに費やされた期間はじつに四〇〇年間ほどの長きにおよぶ。東国となるともっと時間がかかっている。その間、日本列島では弥生文化と縄文文化が共存していたわけだ。もっとひろい視野でみれば、北海道では続縄文文化、沖縄では貝塚後期文化という獲得経済の文化が、弥生時代のみならず古墳時代までつづいた、という事実もある。
 地域差をもちながらも均質的だった網羅型経済の縄文文化は、南部朝鮮からもたらされた水田稲作によって、北の続縄文文化、南の貝塚後期文化、それらに挟まれた弥生文化と、三つの異質な文化に分裂を余儀なくされた。ところが、弥生文化だけをとってみても、その成立事情は多岐におよぶ。第二、水田稲作が開始されてからほぼ一世紀ほどで北部九州では首長墓が成立した、と認識されてきた。しかし、新しい年代観ではそれにも四~五世紀ほどかかったことになる。水田稲作の初期の生産性はさほど高くはなかったようだし、人口も緩慢に増加していったことになるのだろうか。
 水田稲作に象徴された生産経済は優れ、自然に依存した採集・狩猟・漁労の獲得経済を駆逐した、それは社会を急速に変換させる力をもっていた、との生産経済優位史観に私たちはどっぷりと浸かっていた。ところが、環境破壊やエネルギー問題のような現代文明への不安が増幅されてくると、自然経済としての縄文文化の豊かさが見直されはじめた。しかしそうだとすれば、豊かであった縄文文化がなぜ、北と南を除いた日本列島では弥生文化に移行していったのか、との問いに解をあたえることが、つぎの研究課題になってくる。これまでの「縄文文化いきづまり、弥生文化救済論」では説明がつかないのだから。

(2)弥生都市としての大型環濠集落
 農村だけの牧歌的で平和な弥生社会、とのイメージが、漠然としながらも弥生時代研究の一個のパラダイムになっていた。しかし、武器の発達、埋葬された犠牲者、狼煙台ともみなされた高地性集落、それらの事実からして弥生時代に戦争があったことは、もはや動かしがたい。ただ「倭国大乱」の記事とあいまって、弥生時代が戦乱の時代だった、とされるのはいささか早計のように思われるが。
 幅三~五メートル、深さ一~二メートルぐらいの防御用の濠をめぐらせた環濠集落も、弥生時代は戦乱の時代だった、の強力な根拠とされてきた。ところが、大阪府池上曾根(いけがみそね)遺跡(和泉市・泉大津市)で判明したように、七~八万平方メートルもの広大な空間を囲繞した環濠は、周囲から土砂が流入して埋積するたびに掘り直されるものの、そのたびに規模は小さくなっていって、最後はひとまたぎできるほどになっていた、という事実がある。そしてなによりも重要なのは、けっして環濠集落は弥生時代を代表する集落形態ではないことだ。
 中期初頭に成立した大型環濠集落は、畿内地域では旧国単位で一~二ヶ所ほどあるにすぎない。その特徴を奈良県唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡(田原本町)を例にみておこう。第一、大型である。二二~二三万平方メートルもの巨大空間に多重環濠をめぐらす。池上曾根では少なくて五〇〇人、最大で一千人の人口が試算されているから、唐古・鍵ではどれほどになるのであろうか。第二、およそ六〇〇~七〇〇年もの異常なほどの長期にわたって、おなじ場所で生活や生産が営なまれた。第三、首長居宅かとおぼしき大型建物や大型神殿があった。第四、多彩な手工業生産と交易が実施されていた。ここには首長をはじめ「官僚」「司祭」「工人」「商人」等々の異質な人びとが集住していたし、そいういった人びとのイデオロギー的一体感を醸成するための神殿があった。私はそれを弥生都市と概念づけたのだが、農民集落とはまったく異なったこうした場をどういうふうにとらえるのかで、弥生時代の歴史像は違ったものになるのはいうまでもない。
 ちなみに数棟の竪穴住居が一つ、もしくは二つ三つがまとまったもの、それが弥生時代の一般的な農民集落であった。水田経営の拠点たるそれらはおおむね数十年しか存続しないのが普通で、そこではごくわずかな手工業生産しか営まれていなかった。つまり、沖積平野に拓かれた水田に近接して、なんら囲繞施設のない人口数十人の集落が無数に展開していた。それが弥生時代の牧歌的風景の源泉であった。もっとも重要な事実は、これだけ各地で弥生農村が発掘されたにもかかわらず、そこで消費された生活財や生産財を自家供給した形跡がないことだ。すなわち、「農村は自給自足だった」という通説の根拠は認められない。そしてここに弥生都市の存在基盤を認めうるというわけだ。このほかなかば専業的な生産工房もあって、この時代の必需物資が分業生産でまかなわれていたのは動かない。
 弥生時代の人びとは多様な環境に適応した分業生産と、その果実を交易するシステムをつくりあげていた。それらが統合された場が弥生都市であったし、そうした体制が旧国かそれよりもやや狭い地域の首長ネットワークで維持されていた。もっとも、原料の確保、生産技術の伝習、生産道具や食料の供給、生産物の交易(レートの決定もふくめて)といった多岐におよぶプロセスと、それらにかかわった人びとの労働が、他者の意志を強制するといった意味での権力の行使なしには、遂行できなかったことは推測に難くない。
 〈政治的・経済的・宗教的センター機能が集積され、それらを担った人びとが集住していた場が都市である〉と私は概念づけるが、そういった観点からすれば大型環濠集落はまさしく弥生都市とみなしうる。もっとも愛媛県文京(ぶんきょう)遺跡(松山市)などのように、環濠をめぐらさない弥生都市もあった。いずれにせよ、一定の墳墓様式を共有した首長層に統率された弥生時代の地域社会は、ごく少数の都市と大多数の農民集落との相互補完的な構成にあったわけだ。
 畿内という地域社会でいえば、中期には旧国ごとに一~二ヶ所ほどあった弥生都市は、後期になると唐古・鍵遺跡一ヶ所に収斂されていく。いくつか併存していた大型環濠集落が唐古・鍵に統合されてしまう。中心構造をもった畿内という政治的まとまりがこの頃、形成されたようである。

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