三重県から流れて京都府
地勢は平坦で集落は五つに分れ、域内西部を南北に奈良時代の山陰道(のちに奈良街道・郡山街道と呼ばれた)が通っている。
「日本書紀」崇神天皇一〇年九月の条は、天皇に背いた武埴安彦が当地で殺されたことを次のように述べる。
武埴安彦、先づ彦国茸を射るに、中つること得ず。後に彦国茸、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。其の軍衆脅えて退ぐ。則ち追ひて河の北に破りつ。而して首を斬ること半に過ぎたり。屍骨多に溢れたり。故、其の処を号けて、
この羽振苑が転じて祝園の地名になったといわれている。古代は「和名抄」に記す祝園郷の地であり、「延喜式」神名帳にみえる祝園神社がある。祝園神社は木津川自然堤防上に鎮座するが、その杜を
いかなれば同じ時雨に紅葉する
柞のもりの薄くこからむ
堀河右大臣(後拾遺集)
時わかぬ波さへ色にいづみ河
ははその杜に嵐ふくらし
藤原定家(新古今集)
右にみえる泉河(いづみ河)は木津川の別称である。なお、近世の地誌類には柞森を相楽郡加茂町大字西の柞山の地とするものもある。
京と奈良を結ぶ水陸交通の要衝で、紀行文学などにもこの地はしばしば登場する。「更級日記」は二度めの初瀬詣を次のように記す。
又初瀬に詣づれば、はじめにこよなく物たのまし。所々にまうけなどして、行きもやらず。山城国はゝその森などに、紅葉いとをかしきほど也。
経路の詳細はわからないが、木津川を溯航する舟航のように思われる。「保元物語」中巻「左府御最後付大相国御歎きの事」に、
それより梅津に至るまで、(重傷の左府藤原頼長を)小舟にのせ奉り、御上に柴をとりつみて、爪木の舟のごとくにもてなし、漸下るほどに、其日暮にければ、木津にとどまり、また明る十三日、柞の森の辺より、図書允俊成をもつて、冨家殿に告げ申されたりければ、
という。これは舟航であることが明らかな例である。
中世は奈良春日社領の祝園庄として推移する。応仁・文明の乱や山城国一揆の時にはしばしば戦場となったらしく、「多聞院日記」永正四年(一五〇七)九月一〇日条に「今日赤沢新兵衛・内堀以下宇治立、木津・狛・祝園以下著陳云々、依之当国衆戌亥脇郡山辺被陳取了、」とみえ、同一六日条には「赤沢以下京衆者木津、内堀者祝園陳取云々」、同二二日条には「一昨日廿日内堀父子自祝薗山田陳替云々」などと記される。
なお、祝園庄には奈良の西大寺・東大寺、京都の北野神社などもなんらかの権益を有していた。
祝園神社は健御雷命・経津主命・天児屋根命の三神を祀り、江戸時代には春日社とも称した。
草創については不詳だが、「新抄格勅符抄」に「祝園神 四戸山城国」とみえるので、奈良時代、すでにあったことは確かであろう。「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条によれば、従五位下から従五位上に神階が進められている。中世には南都興福寺の支配下にあったとみえ、嘉吉元年(一四四一)の「興福寺官務牒疏」に「祝園神社 同国相楽郡祝園、祭神大歳神世然、天平神護景雲元年、武甕雷神狛郷六本木臨来、此処鎮座、同春日神、在僧二人、祝主三人、神人三人、仁寿元年神階」とみえる。
当社の特殊神事に「いごもり祭」があり、毎年正月甲申の日より三日間にわたって行われる。武埴安彦の霊を鎮め、また戦場となって荒らされた田畑の復興、五穀豊穣を祈る目的で始まったと伝えられる。近世の地誌「山州名跡志」は次のように記している。
此所ノ俗毎年正月始申日ヨリ亥日ニ至テ神事ヲナス。其躰食味ヲ調ルトイヘドモ、一切ニ其音ヲ禁ジ静ニ居スル也。是ヲ居籠ト云フ、又同郡平尾綺田ニモ此義ヲナスナリ。此所祝園ノ寅卯ニ当テ隔木津川、此所ハ官軍ノ居スル所ナル歟。是則長髄彦ガ霊ヲ祝鎮ルノ義ナリト。案ニ居籠ノ字誤歟。実ハ斎籠也。一切ノ神事ニ潔斎シ籠ルヲ云フ。自古名目ナリ。
右にいう「同郡平尾綺田」は
(H・M)
初出:『月刊百科』1981年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである