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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第26回 秘坂鐘乳穴 
【ひめさかかなちあな】
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地底で結ばれた祭儀
岡山県新見市
2009年04月16日

中世、新見庄があったことで知られる新見市は、岡山県の北西端、鳥取県境に位置し、市域の北部は中国山地南斜面、南部は吉備高原に立地している。吉備高原には、石灰岩が雨水や地下水などの化学的浸食作用を受けてできたカルスト地形がよく発達、阿哲(あてつ)台がその典型を示している。阿哲台の各所には鍾乳洞があり、この地域一帯の歴史的景観・建造物とともに観光資源として人々を誘引している。豊永赤馬(とよながあこうま)にある秘坂鐘乳穴もその一つで、近接して大己貴命を主祭神とする日咩坂(ひめさか)鐘乳穴神社(通称日咩宮)がある。

秘坂鐘乳穴は神社裏の谷底にあり、洞窟は裂罅(れっか)型の吸込穴、奥行は約一・七キロに及び、鍾乳石・石筍などの二次生成物も多い。日咩宮はこの鐘乳穴を御神体とするが、明治初年まで同社の別当寺であった三尾(みお)寺の縁起によると、大同二年(八〇七)弘法大師空海が三尾寺を再興した際、山門の鎮守として現社地の西方二〇〇メートル、秘坂鐘乳穴のある本宮山頂に創祀したのに始まり、鎌倉時代になって現在地に遷座したという。日咩宮は『延喜式』神名帳に掲載される備中国英賀(あが)郡二座の一、比売坂(ひめさか)鐘乳穴神社に比定されるので、大同二年創祀の真偽はともかく、古くから祀られていたことは確かである。
英賀郡のもう一座は井戸(いど)鐘乳穴神社といい、隣接する北房(ほくぼう)上水田(かみみずた)に鎮座、付近に同じく鍾乳洞の備中鐘乳穴がある。同社も鐘乳穴を御神体として祀られたものであろう。英賀郡の式内社二座がいずれも鍾乳洞に関係しているのは、当地一帯が古代において、特別の意味合いをもって理解されていたことを示して興味深い。『三代実録』貞観元年(八五九)二月七日条に、朝廷は典薬頭出雲岑嗣に勅して備中国の「石鍾乳」を採取させたとあるが、おそらく当地辺の鍾乳石が薬用として重宝されていたのであろう。

秘坂鐘乳穴・備中鐘乳穴はともに岡山県指定の天然記念物で、付近にはそのほか豊永赤馬の満奇(まき)洞、正田(しょうでん)(しま)嶽、豊永宇山(とよながうやま)の宇山洞、井倉(いくら)の井倉洞、北房町下砦部(しもあざえ)の諏訪の穴(以上県指定天然記念物)、草間(くさま)の羅生門(高さ三八メートル、幅一七メートルの石灰岩の天然橋)、間欠冷泉(いずれも国指定天然記念物)などがあり、自然の造形の見事さを味わせてくれる。満奇洞は閉塞性横穴で、洞内は約四五〇メートル。所在地の地名にちなんで槙の穴とよばれていたが、昭和五年、訪れた歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻が、その形状にふさわしく満奇洞と命名した。

日咩宮の秋季大祭は十一月十一日に行われ、下砦部の八幡神社とともに、上砦部の「アキノ宮」へ渡御が行われる。このことは秘坂鐘乳穴が下砦部の諏訪の穴に通底しているという昔からの土地の伝承との関連が考えられる。両社共同の渡御がいつごろから始まったものかは明らかにしがたいが、相当古くからの慣行であり、おそらく、鐘乳穴で結ばれていると信じた土地の人々の紐帯の意識が生み出した行事と思われる。日咩宮の六月十一日のお田植祭、旧暦一月十一日と同十一月十一日のお篾焼(へらやき)(牛鍬の箆で焼いた餅)供進祭も、古い祭の形態を伝えている。また境内末社のうち明日名門(あすなかど)神社は鬼神社ともいい、吉備津彦伝承に似た鬼退治の伝承がある。
なお三尾寺は千手観音を本尊とする高野山真言宗寺院で、縁起によれば神亀四年(七二七)行基の開創と伝え、弘法大師の中興以後、真言密教の道場として栄えたという。本尊は脇侍二体とともに鎌倉時代中期の作で、国の重要文化財に指定されている。これらを安置する本堂は、永禄二年(一五五九)砦部庄丸山城主庄勝資が再建したとの伝えがあり、県指定の重要文化財である。

(H・M)


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初出:『月刊百科』1988年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。



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