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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第17回 児捨川 
【こすてがわ】
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地名伝承が語る川の源
宮城県白石市
2008年06月13日

 白石市域には母と子供にまつわる民間伝承をのこす地名がいくつかみられる。それは母親の出産であったり、母が子供を捨てる話であったりするが、たいていは、犬や猪や白鳥などの鳥獣や木石が介在している。市街地東方山間の犬卒都婆(いぬそとば)には、比叡山から京の都に出没して荒しまわった老猪が、小野篁に追われてこの辺りまで逃げ、さらにマタギの蕃二・蕃三郎とその飼犬である白犬に追われて殺され、傷ついた白犬もこの地で死んで葬られたという話が伝わる。さらにはこの地にある巨大な岩を犬供養石といって、女人たちが安産祈願にお参りするという話も伝わる。また市域南端の福島県境にあって分水界をなす小坂(こさか)峠は、かつて児坂嶺、産坂などと記された。土地人には児安坂の俗称で知られていたが、「奥羽観蹟聞老志」などには、峠の小石が安産のお守りとして用いられていると伝えており、峠を通行する女人が小石を袂に入れて持ち帰る風習がみられたという。

 児捨川は市域西方の南蔵王不忘(ふぼう)山を源とし、市域中程の八宮(やつみや)付近で白石川左岸に合流する。八宮に南隣して長袋(ながぶくろ)の地がある。この長袋の旧奥州街道沿い、白石川に架る橋の袂にあった児宮(ちごのみや)社には、用命天皇の妃玉世媛の捨てた若宮が、白鳥となって飛び去ったという伝承がある(『刈田郡案内』など)。仙台藩の地誌「安永風土記書出」ではヤマトタケルノミコトが土地の娘を寵愛し、娘は懐妊したが、ミコトは都に帰り、娘は男児を出産した。その(えな)が普通より長かったので長袋の地名となったと伝えている。玉世媛の児捨の伝承は、南蔵王刈田(かつた)岳に祀られる刈田嶺(かつたみね)神社にもあり、この社の神を俗に白鳥大明神と称して、白鳥を崇敬すること尋常ではなかったという。この児捨の伝承に用命天皇が介在したわけは、柳田国男が「赤子塚の話」で説くように、厩戸皇子(聖徳太子)の父であったためである。若宮すなわち厩戸皇子ではないにしても、長い胞衣といい、白鳥になって飛び去ったといい、この若宮は、尋常の夫婦の間に生まれた子供ではなかったことを物語る。それが誰であるかを問うことはあるいは無意味かもしれないが、ともかくこの話を厩戸皇子に見立てさせるように働かせたのは、第三者の存在を想定しなければならない。柳田はこれに「巫女の神道」の存在を推測している。

 ではこの「巫女の神道」の実態はなんであったのだろうか。それを解く鍵は児捨川にはなく、その源の不忘山にあり、さらに不忘山の背後に控える刈田岳に求められる。その前に児捨川の伝承には、神が、ある侵しがあって人界に降り、苦難の人生ののちに完全なる神となって転生したという思想、すなわち折口信夫が定義した貴種流離譚の要素が認められ、さらに山と関連させた出産のモチーフがあり、聞き手はおもに女性であったろうと想像される点などから、類似性を「熊野本地譚」に求めることができる。しかもきわめて荒削りな形であるために、かえって「熊野本地譚」が地方において必要にして最小限語りたかったことがなんであったかがみえてくるように思う。
さてつぎにこの伝承の管理者であった巫女とはなにかということである。藤原清輔の「袋草子」に熊野御歌として載せる「道とほく年もやうやう老にけり思ひおこせよ我も忘れじ」の歌は、毎年陸奥国より熊野へ参詣する女の老ののちの夢を想って歌ったものという。のちに「陸奥国の老女」とモチーフ化されて、都の文芸の素材ともなった。このモチーフは陸奥国に移されて、仙台市の南の名取(なとり)高館熊野堂(たかだてくまのどう)にある名取熊野三社にも付属して語られている。同社は熊野信仰に厚い奥州藤原氏の勧請と伝える古社である。そしてこの社を熊野の地方拠点として活躍した巫女がいたと想像することはむずかしくない。

 さて、不忘山・刈田岳をふくむ蔵王山は、熊野の影響を外しては語れない山であった。その最高峰は熊野岳と称し、刈田岳は蔵王山の信仰を形で表わした社の置かれる山であった。そして、その社とはすなわち刈田嶺神社なのである。
ところで長袋村にとって児宮社はどのように働いた社なのだろうか。先の柳田国男の「赤子塚の話」には、各地の赤子の啼声が聞えるという塚の事例をあげたすえに、おおよそつぎのように結論している。すなわち、塚の中から赤子の啼声が聞えた場所の多くが境の神の祭場付近にあることから、大人よりも遙かに手軽な方法で処理し、その霊を境の神の管理にゆだねた、と説明する。長袋の児宮社がそもそもは右のようなものであったかどうか、いまは確かめられない。
なお長袋の地名は、白石川沿いの細長い平地の意味ととるのが妥当のようだ(風間静観『地名の研究』)。

(Y・O)


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初出:『月刊百科』1987年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。



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