白石市域には母と子供にまつわる民間伝承をのこす地名がいくつかみられる。それは母親の出産であったり、母が子供を捨てる話であったりするが、たいていは、犬や猪や白鳥などの鳥獣や木石が介在している。市街地東方山間の
児捨川は市域西方の南蔵王
ではこの「巫女の神道」の実態はなんであったのだろうか。それを解く鍵は児捨川にはなく、その源の不忘山にあり、さらに不忘山の背後に控える刈田岳に求められる。その前に児捨川の伝承には、神が、ある侵しがあって人界に降り、苦難の人生ののちに完全なる神となって転生したという思想、すなわち折口信夫が定義した貴種流離譚の要素が認められ、さらに山と関連させた出産のモチーフがあり、聞き手はおもに女性であったろうと想像される点などから、類似性を「熊野本地譚」に求めることができる。しかもきわめて荒削りな形であるために、かえって「熊野本地譚」が地方において必要にして最小限語りたかったことがなんであったかがみえてくるように思う。
さてつぎにこの伝承の管理者であった巫女とはなにかということである。藤原清輔の「袋草子」に熊野御歌として載せる「道とほく年もやうやう老にけり思ひおこせよ我も忘れじ」の歌は、毎年陸奥国より熊野へ参詣する女の老ののちの夢を想って歌ったものという。のちに「陸奥国の老女」とモチーフ化されて、都の文芸の素材ともなった。このモチーフは陸奥国に移されて、仙台市の南の
さて、不忘山・刈田岳をふくむ蔵王山は、熊野の影響を外しては語れない山であった。その最高峰は熊野岳と称し、刈田岳は蔵王山の信仰を形で表わした社の置かれる山であった。そして、その社とはすなわち刈田嶺神社なのである。
ところで長袋村にとって児宮社はどのように働いた社なのだろうか。先の柳田国男の「赤子塚の話」には、各地の赤子の啼声が聞えるという塚の事例をあげたすえに、おおよそつぎのように結論している。すなわち、塚の中から赤子の啼声が聞えた場所の多くが境の神の祭場付近にあることから、大人よりも遙かに手軽な方法で処理し、その霊を境の神の管理にゆだねた、と説明する。長袋の児宮社がそもそもは右のようなものであったかどうか、いまは確かめられない。
なお長袋の地名は、白石川沿いの細長い平地の意味ととるのが妥当のようだ(風間静観『地名の研究』)。
(Y・O)
初出:『月刊百科』1987年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。