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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第100回 基肄城
【きいじょう】
93

緊迫する東アジア情勢、列島防衛の最前線
佐賀県三養基郡基山町
2014年03月07日

佐賀平野の北にそびえる脊振せふり山脈。その主峰脊振山(一〇五四・六メートル)から東へ佐賀・福岡県境にそって九千部山くせんぶざん(八四七・五メートル)、権現山(六二六・三メートル)、契山ちぎりやま(四〇二・九メートル)と順次標高を下げ、二日市ふつかいち低地帯にのぞむ東端近くに基山きざんが位置する。県境の北峰(四一二メートル)、通常基山とよぶ西峰(四〇四・五メートル)、東峰(三二七メートル)、この三峰を結ぶ環状の稜線内の凹地が、天智四年(六六五)に築かれたという椽城きのき(基肄城)の跡である。この山の東の鞍部を通る古代の官道は、肥前・筑後と大宰府とを結び、「の山道」ともよばれた。

『肥前風土記』の基肄郡きのこおりの個所に、景行天皇にちなんで

昔者むかし、纏向の日代の宮に御宇あめのしたしろしめしし天皇、巡狩めぐりみそなわしし時、筑紫の国、御井の郡の高羅こうらの行宮にいまして、国内を遊覧みそなわすに、霧、基肄之山きのやまを覆えりき。天皇、りたまいしく、「の国は、霧の国とうべし」とのりたまいき。後の人、改めて基肄国きのくになずく。今、郡の名と為せり。

とあり、基山をおおう霧に郡名が由来するという。基肄郡は、のち「きいぐん」ともよばれ、明治二九年(一八九六)に養父やぶ郡・三根みね郡と合併して三養基みやき郡となった。

基山は古来、木山、城山、基八間(木八間)、基肄山などと書き、「きやま」と読んだが、明治二二年にこの一帯の村名を基山きやま村として以後、基山きざんとよぶようになった。

山名の由来について、風土記にある「霧」の転訛説、椽城による城山説、五十猛命植樹の故事による木山説、肥前国の鬼門説などがある。

『日本書紀』天智紀四年八月に

達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国にまだして大野及び椽二城を築かしむ

また『続日本紀』文武紀二年五月に

大宰府をして大野・基肄・鞠智の三城を繕治せしむ

とあり、城が築かれたことがわかる。

『肥前風土記』に記される「城壱所」も基山の城をさす。椽城、基肄城、記夷城、基山城などと文献にあるが、現在は旧郡名にちなんでか、基肄城きいじょうの呼称が一般化している。

築城の背景には、新羅・唐の連合軍に破れた百済を支援するため朝鮮へ出兵した日本軍が、六六三年白村江において喫した敗北がある。以後緊迫した対外関係のなかで、西海の防備のため六六四年対馬・壱岐・筑紫に防人さきもりとぶひ(狼煙をあげて合図を伝達する施設)をおき、大宰府の「府の大道」に面して水城みずき(防御のための堀)を築いた。さらに翌年百済からの亡命貴族、憶礼福留・四比福夫らに命じて大野山(福岡県)と基山に城を築き、水城・大野城・基肄城は、大宰府をかこむ羅城(外郭)を形成していた。

基肄城は西峰と東峰の間を、北は築堤によって結び、南を石垣で連結した城である。その延長線は四千二〇〇メートルに及び、展望所のほか土塁・石垣・門跡・水門・礎石などがいまも残っている。

展望所は西峰中央部にあり、北は博多湾から筑後平野にかけて一望のもとに俯瞰できる。この付近を南北にめぐる土塁線の外側は断崖となり、内側は平坦な車路くるまじが続いている。門跡は四ヵ所にあり、そのうち北帝門(北峰)は大宰府に面した正門で、二重の土塁線と石垣が残る。水門は南端近くにあって、東西両峰の谷の水を排水する施設で、石垣がその左右に築かれている。礎石群は三〇ヵ所あまり残存し、また出土遺物として遺瓦のほか炭化米があったという。

谷をかこむ山丘に土塁・石垣をめぐらしたわが国最古の朝鮮式山城として、昭和二九年(一九五四)特別史跡に指定された。

神亀五年(七二八)式部大輔石上堅魚は大宰府に大伴旅人を、その妻の死をいたんで訪れた。『万葉集』に「駅使と府の諸卿大夫等と共に記夷城きいのきに登りて望遊する日」として

ほととぎす鳴きとよもす卯の花の
共にやしと問はましものを

がある。これに応じた旅人は

橘の花散る里のほととぎす
片恋しつつ鳴く日しそ多き

と詠んだ。なお同じく『万葉集』には大監伴氏百代が詠んだ

梅の花散らくはいづくしかすがに
このの山に雪は降りつつ

が載る。このの山は大城おおき山(大野山)のことであろうとされる。基山と大野山は地理的に近接しているためか、文献上混同があるようだ。

西峰山頂にいまも霊々石たまたまいしという花崗岩の巨石があり、南麓に鎮座する荒穂あらほ神社の磐座いわくらといわれる。北峰には同神社四所別宮の一である北御門神が鎮座する。東峰にはいつの時代にか僧坊多数があったともいい、「城山四王院」の存在を考えるむきもある。基肄城東南門跡のある東谷には仏谷ほとけだにの別称があるという。また、基肄城は修築して中世にも利用されたらしいことが、『北肥戦誌』や『陰徳太平記』にみえる。

現在、基山一帯の地域は佐賀県側が脊振・北山ほくざん県立自然公園、福岡県側は脊振・雷山らいざん県立自然公園に編入されている。

(K・A)

初出:『月刊百科』1979年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである

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