佐賀平野の北にそびえる脊振山脈。その主峰脊振山(一〇五四・六メートル)から東へ佐賀・福岡県境にそって九千部山(八四七・五メートル)、権現山(六二六・三メートル)、契山(四〇二・九メートル)と順次標高を下げ、二日市低地帯にのぞむ東端近くに基山が位置する。県境の北峰(四一二メートル)、通常基山とよぶ西峰(四〇四・五メートル)、東峰(三二七メートル)、この三峰を結ぶ環状の稜線内の凹地が、天智四年(六六五)に築かれたという椽城(基肄城)の跡である。この山の東の鞍部を通る古代の官道は、肥前・筑後と大宰府とを結び、「城の山道」ともよばれた。
『肥前風土記』の基肄郡の個所に、景行天皇にちなんで
昔者、纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、筑紫の国、御井の郡の高羅の行宮に御して、国内を遊覧すに、霧、基肄之山を覆えりき。天皇、勅りたまいしく、「彼の国は、霧の国と謂うべし」とのりたまいき。後の人、改めて基肄国と号く。今、郡の名と為せり。
とあり、基山をおおう霧に郡名が由来するという。基肄郡は、のち「きいぐん」ともよばれ、明治二九年(一八九六)に養父郡・三根郡と合併して三養基郡となった。
基山は古来、木山、城山、基八間(木八間)、基肄山などと書き、「きやま」と読んだが、明治二二年にこの一帯の村名を基山村として以後、基山とよぶようになった。
山名の由来について、風土記にある「霧」の転訛説、椽城による城山説、五十猛命植樹の故事による木山説、肥前国の鬼門説などがある。
『日本書紀』天智紀四年八月に
達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して大野及び椽二城を築かしむ
また『続日本紀』文武紀二年五月に
とあり、城が築かれたことがわかる。
『肥前風土記』に記される「城壱所」も基山の城をさす。椽城、基肄城、記夷城、基山城などと文献にあるが、現在は旧郡名にちなんでか、基肄城の呼称が一般化している。
築城の背景には、新羅・唐の連合軍に破れた百済を支援するため朝鮮へ出兵した日本軍が、六六三年白村江において喫した敗北がある。以後緊迫した対外関係のなかで、西海の防備のため六六四年対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(狼煙をあげて合図を伝達する施設)をおき、大宰府の「府の大道」に面して水城(防御のための堀)を築いた。さらに翌年百済からの亡命貴族、憶礼福留・四比福夫らに命じて大野山(福岡県)と基山に城を築き、水城・大野城・基肄城は、大宰府をかこむ羅城(外郭)を形成していた。
基肄城は西峰と東峰の間を、北は築堤によって結び、南を石垣で連結した城である。その延長線は四千二〇〇メートルに及び、展望所のほか土塁・石垣・門跡・水門・礎石などがいまも残っている。
展望所は西峰中央部にあり、北は博多湾から筑後平野にかけて一望のもとに俯瞰できる。この付近を南北にめぐる土塁線の外側は断崖となり、内側は平坦な車路が続いている。門跡は四ヵ所にあり、そのうち北帝門(北峰)は大宰府に面した正門で、二重の土塁線と石垣が残る。水門は南端近くにあって、東西両峰の谷の水を排水する施設で、石垣がその左右に築かれている。礎石群は三〇ヵ所あまり残存し、また出土遺物として遺瓦のほか炭化米があったという。
谷をかこむ山丘に土塁・石垣をめぐらしたわが国最古の朝鮮式山城として、昭和二九年(一九五四)特別史跡に指定された。
神亀五年(七二八)式部大輔石上堅魚は大宰府に大伴旅人を、その妻の死をいたんで訪れた。『万葉集』に「駅使と府の諸卿大夫等と共に記夷城に登りて望遊する日」として
ほととぎす来鳴きとよもす卯の花の
共にや来しと問はましものを
がある。これに応じた旅人は
橘の花散る里のほととぎす
片恋しつつ鳴く日しそ多き
と詠んだ。なお同じく『万葉集』には大監伴氏百代が詠んだ
梅の花散らくはいづくしかすがに
この城の山に雪は降りつつ
が載る。この城の山は大城山(大野山)のことであろうとされる。基山と大野山は地理的に近接しているためか、文献上混同があるようだ。
西峰山頂にいまも霊々石という花崗岩の巨石があり、南麓に鎮座する荒穂神社の磐座といわれる。北峰には同神社四所別宮の一である北御門神が鎮座する。東峰にはいつの時代にか僧坊多数があったともいい、「城山四王院」の存在を考えるむきもある。基肄城東南門跡のある東谷には仏谷の別称があるという。また、基肄城は修築して中世にも利用されたらしいことが、『北肥戦誌』や『陰徳太平記』にみえる。
現在、基山一帯の地域は佐賀県側が脊振・北山県立自然公園、福岡県側は脊振・雷山県立自然公園に編入されている。
(K・A)
初出:『月刊百科』1979年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである
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