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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第95回 開聞岳
【かいもんだけ】
88

九州南端の独立峰
鹿児島県開聞町
2013年12月13日

薩摩半島の南端にそそり立つ山が開聞岳である。標高九二二メートル、端正な円錐形を呈し、その山容から薩摩富士の名で親しまれている。鹿児島藩主島津斉興の命により、天保一四年(一八四三)に刊行された「三国名勝図会」は、

巍然として海に臨み、天半に屹立し、近辺に層岡複峰の相接するなく、秀絶の状、芙蓉一朶を雲表に挿むが如し

とその姿を讃え、東西南北四方から遠望した景観も記している。登山道はユニークで、螺旋状に山を巻いて高度を稼ぐようになっている。

開聞岳は基底直径約五キロの火山で、一見単式火山のように見えるが、玄武岩質の成層火山とその上にのる安山岩質の溶岩円頂丘とで構成される複式火山である。誕生したのはそう古いことではなく、約四千年前に噴火活動が始まり、「三代実録」に噴火の記録がみえる九世紀後半までに、都合五回の火山活動があったことが知られている。その度に大量の火山灰が噴出し、火砕流が発生した。また噴火後も土石流が発生するなど、周辺住民の生活に多大な影響を及ぼした。

「三代実録」に記録された噴火の様子は次のようである。貞観一六年(八七四)の噴火は三月四日夜に起こった。同年七月二日条には「大宰府言、薩摩国従四位上開聞神山頂、有火自焼、煙薫満天、灰沙如雨、震動之声聞百余里、近社百姓震恐失精」とあり、噴火に遭遇した人々の驚愕の様が窺われる。同月二九日条によると火山灰は降り続き、昼でも夜のように暗く、灰は一寸から五寸も降り積もった。のち灰まじりの雨が降って作物は枯れ、さらに土石流が発生して魚が死に、その魚を食べた者は病気になったり、死んだりしたと記述されている。

仁和元年(八八五)にも七月一二日と八月一一日に大規模な噴火が起こっている。八月一二日には「自辰至子雷電、砂降未止、砂石積地、或処一尺已下、或処五六寸已上、田野埋瘞、人民騒動」という有様となり、朝廷は神祇官や陰陽寮に卜占させ、薩摩国と降灰を報告した肥前国に命じて部内の神々に幣を奉らせている(同年一〇月九日条)。

開聞岳から東北東約一〇キロの指宿いぶすき十二町じゅうにちょう橋牟礼川はしむれがわ遺跡がある。同遺跡は大正七‐八年(一九一八‐一九)に京都帝国大学と東北帝国大学によって発掘調査が行われ、火山灰を挟んで上下に縄文式土器と弥生式土器が出てきたことから、両者の新旧関係が初めて明らかにされた遺跡として著名である。大正一〇年に刊行された報告書では「先史時代のポンペイ」などと呼ばれ、同一三年には学史に残る遺跡として国の史跡に指定された。

近年は開聞岳の噴火活動との関連で注目され、その噴出物に埋もれた住居や畑などは「火山災害遺跡」と呼ばれ、調査研究が進められている。開聞岳による貞観一六年の噴出物の直下からは住居・貝塚・杭列・道・畑・川などが発見され、住居のなかには噴出物によって押し潰されたまま残っているものもみられた。道は集落と集落を結ぶもので、畑には畝や乾竿、馬鍬による耕作痕まで残り、土壌分析などによってイネ・アワ・ヒエなどの作物が特定されつつある。墓も見つかっており、集落との関係も確認できる可能性がある。また出土品のなかには役人の帯金具につけられていた丸鞆や、「真」などと記された墨書土器、硯などもあり、周辺に役所があった可能性も示唆されている。

「延喜式」神名帳には薩摩国二座のうち頴娃えい郡一座として「枚聞ヒラキキ神社」が登載されている。同名の神社は現在開聞岳の北方に鎮座しているが、もとは南麓にあって開聞岳を神体山としていたと推測されている。「枚聞」の用字は「延喜式」神名帳が初見で、古くは「開聞神」としてみえる。貞観二年に従五位上から従四位下に(「三代実録」同年三月二〇日条)、同八年には従四位上に進階している(同書同年四月七日条)。また貞観一六年の開聞岳噴火の原因は、開聞神が封戸を望み、加えて神社が穢されたための祟りであったとされ、天皇の命により開聞神に二〇戸の封戸が与えられた(同書同年七月二日条)。

開聞岳は薩摩富士のほか、筑紫富士・金畳山・蓮華山・長主山・海門山などの異称を有したという(「三国名勝図会」)。このうち海門山は開聞の宛字であろうが、九州の最南端に位置し、南方海上から遠望しうるランドマークであったことを考えると巧妙な宛字といえる。吐噶喇とから列島や近世に道之島みちのしまと呼ばれた奄美諸島を往来していた船人にとり、開聞岳が航海の目印としてだけではなく、海上の安全を見守る航海神として存在していたことは想像に難くない。

「三国名勝図会」は「凡南島琉球より本藩に帰り来る者は、海中先始て開聞山を見得たる時は、船中必ず酒を酌て、遥に開聞神を祭る」という風習を紹介している。また南方の島々には枚聞神社から毎年守札が出されていたといい、琉球国王は入貢時枚聞神社に献額する習わしであったという(「開聞町郷土誌」など)。

 

(K・O)

端正なその姿から、「薩摩富士」の愛称でよばれる開聞岳


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初出:『月刊百科』1997年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである