薩摩半島の南端にそそり立つ山が開聞岳である。標高九二二メートル、端正な円錐形を呈し、その山容から薩摩富士の名で親しまれている。鹿児島藩主島津斉興の命により、天保一四年(一八四三)に刊行された「三国名勝図会」は、
巍然として海に臨み、天半に屹立し、近辺に層岡複峰の相接するなく、秀絶の状、芙蓉一朶を雲表に挿むが如し
とその姿を讃え、東西南北四方から遠望した景観も記している。登山道はユニークで、螺旋状に山を巻いて高度を稼ぐようになっている。
開聞岳は基底直径約五キロの火山で、一見単式火山のように見えるが、玄武岩質の成層火山とその上にのる安山岩質の溶岩円頂丘とで構成される複式火山である。誕生したのはそう古いことではなく、約四千年前に噴火活動が始まり、「三代実録」に噴火の記録がみえる九世紀後半までに、都合五回の火山活動があったことが知られている。その度に大量の火山灰が噴出し、火砕流が発生した。また噴火後も土石流が発生するなど、周辺住民の生活に多大な影響を及ぼした。
「三代実録」に記録された噴火の様子は次のようである。貞観一六年(八七四)の噴火は三月四日夜に起こった。同年七月二日条には「大宰府言、薩摩国従四位上開聞神山頂、有火自焼、煙薫満天、灰沙如雨、震動之声聞百余里、近社百姓震恐失精」とあり、噴火に遭遇した人々の驚愕の様が窺われる。同月二九日条によると火山灰は降り続き、昼でも夜のように暗く、灰は一寸から五寸も降り積もった。のち灰まじりの雨が降って作物は枯れ、さらに土石流が発生して魚が死に、その魚を食べた者は病気になったり、死んだりしたと記述されている。
仁和元年(八八五)にも七月一二日と八月一一日に大規模な噴火が起こっている。八月一二日には「自辰至子雷電、砂降未止、砂石積地、或処一尺已下、或処五六寸已上、田野埋瘞、人民騒動」という有様となり、朝廷は神祇官や陰陽寮に卜占させ、薩摩国と降灰を報告した肥前国に命じて部内の神々に幣を奉らせている(同年一〇月九日条)。
開聞岳から東北東約一〇キロの
近年は開聞岳の噴火活動との関連で注目され、その噴出物に埋もれた住居や畑などは「火山災害遺跡」と呼ばれ、調査研究が進められている。開聞岳による貞観一六年の噴出物の直下からは住居・貝塚・杭列・道・畑・川などが発見され、住居のなかには噴出物によって押し潰されたまま残っているものもみられた。道は集落と集落を結ぶもので、畑には畝や乾竿、馬鍬による耕作痕まで残り、土壌分析などによってイネ・アワ・ヒエなどの作物が特定されつつある。墓も見つかっており、集落との関係も確認できる可能性がある。また出土品のなかには役人の帯金具につけられていた丸鞆や、「真」などと記された墨書土器、硯などもあり、周辺に役所があった可能性も示唆されている。
「延喜式」神名帳には薩摩国二座のうち
開聞岳は薩摩富士のほか、筑紫富士・金畳山・蓮華山・長主山・海門山などの異称を有したという(「三国名勝図会」)。このうち海門山は開聞の宛字であろうが、九州の最南端に位置し、南方海上から遠望しうるランドマークであったことを考えると巧妙な宛字といえる。
「三国名勝図会」は「凡南島琉球より本藩に帰り来る者は、海中先始て開聞山を見得たる時は、船中必ず酒を酌て、遥に開聞神を祭る」という風習を紹介している。また南方の島々には枚聞神社から毎年守札が出されていたといい、琉球国王は入貢時枚聞神社に献額する習わしであったという(「開聞町郷土誌」など)。
(K・O)
初出:『月刊百科』1997年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである