山深い熊野の地は、紀伊山地が太平洋の熊野灘に沈む和歌山県南東部および三重県南西部にあたる。古くより諸神・諸仏のいます霊場として多くの人びとの心を誘った。その中心となったのが
熊野詣の路は、紀伊半島の西部海岸近くを南下する
天仁二年(一一〇九)藤原宗忠一行は、中辺路を通り本宮参詣の後、熊野川(新宮川)を舟で下り、新宮に詣で、さらに大辺路を那智に向かった。那智参詣の後、一行は往路を逆にたどり帰途につく(『中右記』)。しかし建仁元年(一二〇一)の後鳥羽上皇の参詣は、往路は先の宗忠と同様の巡路をめぐりつつも、那智参詣後の帰途は別の道(新宮を経由せず、直接本宮へ戻る道)を通った。この路が、中辺路の一部で熊野参詣路の中でも最も険しい雲取越であった。この時随行した藤原定家は、病の身であったが雨の中を輿に乗って越え、『後鳥羽院熊野御幸記』に
無松明待天明之間雨怱降、雖待晴間弥如注、仍営出一里許行、天明風雨之間路窄、不及取笠、着蓑笠輿中如海、如林宗、終日超嶮岨、心中如夢未遇如此事、雲トリ紫金峯如立乎
と記している。雲取の名も雲取越を越えた記録も、この御幸記の記事が最も早い。
雲取越の路は、那智大滝の南西に聳える
この嶮岨な山路にも、近世後期には船見茶屋・掻餅茶屋・越前茶屋・石堂茶屋などができており(『熊野巡覧記』)、旅人に一時の休息の場を提供した。とくに船見茶屋は那智側から大雲取越を登りつめた地にあり、その眺望はすばらしく、玉川玄竜は『熊野巡覧記』に「峰又峰の上より遠く海上を臨めば、島々のかたち刻むごとく、又は風帆扇を飛す、絶景筆にもおよばず」と記している。熊野詣の盛時、この雲取越を越えた多くの人びともこの地で一息をつき、眼下にひろがる熊野の海を満喫したことであろう。また、雲取越のうち大雲取越の間には敷石道もつくられている。寛政一一年(一七九九)正月、この地を越えた信州高遠藩士坂本天山の『紀南遊嚢』に「此五里ノ間天然ノ石ニテ、磴道ヲ造リ、少シ坦ナル処ハ敷石ヲシテ深山ノ内ノ少径ヲ二百五十丁ノ間、石ノ上バカリヲ歩ムヤウニシタリ、元禄三年ヨリ宝永二年マデニ並ベ終リタル由、行人ノ所為ト云フ」とみえる。
また『熊野巡覧記』は、昔、この地に大きな蜘蛛がいて往来の人びとを悩ませたが、射芸の達人狩場刑部左衛門が退治し、「蜘蛛取坂」というようになったという話を紹介している。
那智山側の起点ともいうべき妙法山は、死者の霊の集まる山として信仰される。『紀伊続風土記』は「人死する時は幽魂必当山に参詣すといふと、恠しき事なと眼前に見し人もあり」と記す。この山頂の奥院(十万浄土堂)あたりは
このような死者の世界に通ずる雲取越は死出の山路でもあった。妙法山奥院御詠歌に「くまの路をものうき旅と思ふなよ死出の山路でおもひしらせん」と詠われ、巡礼はまた「ここも旅また行くさきも旅なれやいづくの土にわれやなるらん」と詠いつつ参詣札を打ち、「極楽行の血脈」をうけてから九里八町の雲取越に向かうという。
熊野詣の人びとや巡礼が、この雲取越の途中、亡き両親に再会したとの話が伝えられている。現在通る人もなくひっそりと続く雲取越の途中に、草に埋もれてのこる石仏や、行倒れた道者の墓に死出の山路の雲取越のかつての姿をしのぶことができる。
(M・K)
初出:『月刊百科』1983年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである