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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第65回 雲取越
【くもとりごえ】
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熊野詣の険路
2012年05月25日

山深い熊野の地は、紀伊山地が太平洋の熊野灘に沈む和歌山県南東部および三重県南西部にあたる。古くより諸神・諸仏のいます霊場として多くの人びとの心を誘った。その中心となったのが熊野三山くまのさんざんと称される、本宮ほんぐう(和歌山県東牟婁郡本宮町の熊野本宮大社)・新宮しんぐう(同県新宮市の熊野速玉大社)・那智なち(東牟婁郡那智勝浦町の熊野那智大社)の三社で、熊野詣はこれら三山への参詣の旅であった。延喜七年(九〇七)宇多上皇が熊野に御幸しているが(『扶桑略記』)、院政期には上皇・皇族・貴族の参詣が相つぎ、後白河法皇の参詣は「本宮三十四度、新宮那智十五度」と『源平盛衰記』に記される。庶民の参詣もさかんで、のちに、こうした隆盛をさして「蟻の熊野詣」のことばも生まれた。

熊野詣の路は、紀伊半島の西部海岸近くを南下する紀路きじと、東部、伊勢国を経て熊野に入る伊勢路いせじが古くより用いられた。『梁塵秘抄』に「熊野へまゐるには紀路と伊勢路のどれ近しどれ遠し」と詠われた路である。紀路にはまた、現在の田辺から山中に入り、本宮を経て那智に向かう中辺路なかへじと、田辺から南へ海岸線に沿って那智・新宮に向う大辺路おおへじとがあった。上皇・貴族たちの参詣はもっぱら中辺路がとられた。
天仁二年(一一〇九)藤原宗忠一行は、中辺路を通り本宮参詣の後、熊野川(新宮川)を舟で下り、新宮に詣で、さらに大辺路を那智に向かった。那智参詣の後、一行は往路を逆にたどり帰途につく(『中右記』)。しかし建仁元年(一二〇一)の後鳥羽上皇の参詣は、往路は先の宗忠と同様の巡路をめぐりつつも、那智参詣後の帰途は別の道(新宮を経由せず、直接本宮へ戻る道)を通った。この路が、中辺路の一部で熊野参詣路の中でも最も険しい雲取越であった。この時随行した藤原定家は、病の身であったが雨の中を輿に乗って越え、『後鳥羽院熊野御幸記』に

無松明待天明之間雨怱降、雖待晴間弥如注、仍営出一里許行、天明風雨之間路窄、不及取笠、着蓑笠輿中如海、如林宗、終日超嶮岨、心中如夢未遇如此事、雲トリ紫金峯如立乎

と記している。雲取の名も雲取越を越えた記録も、この御幸記の記事が最も早い。

雲取越の路は、那智大滝の南西に聳える妙法みょうほう山(七四九メートル)から、その北方の大雲取山(九六五.七メートル)の西肩を通り、その北西の越前峠(八七〇・六メートル)、さらにその北方の如法にょほう山(六〇九・五メートル)を越えて熊野川河岸に出、本宮へと続く。このうち大雲取山辺を越えるのを大雲取越、如法山を越えるのを小雲取越と呼んでいる。この路を通っての那智と本宮の距離は九里八町といわれている(『紀南郷導記』)。
この嶮岨な山路にも、近世後期には船見茶屋・掻餅茶屋・越前茶屋・石堂茶屋などができており(『熊野巡覧記』)、旅人に一時の休息の場を提供した。とくに船見茶屋は那智側から大雲取越を登りつめた地にあり、その眺望はすばらしく、玉川玄竜は『熊野巡覧記』に「峰又峰の上より遠く海上を臨めば、島々のかたち刻むごとく、又は風帆扇を飛す、絶景筆にもおよばず」と記している。熊野詣の盛時、この雲取越を越えた多くの人びともこの地で一息をつき、眼下にひろがる熊野の海を満喫したことであろう。また、雲取越のうち大雲取越の間には敷石道もつくられている。寛政一一年(一七九九)正月、この地を越えた信州高遠藩士坂本天山の『紀南遊嚢』に「此五里ノ間天然ノ石ニテ、磴道ヲ造リ、少シ坦ナル処ハ敷石ヲシテ深山ノ内ノ少径ヲ二百五十丁ノ間、石ノ上バカリヲ歩ムヤウニシタリ、元禄三年ヨリ宝永二年マデニ並ベ終リタル由、行人ノ所為ト云フ」とみえる。
また『熊野巡覧記』は、昔、この地に大きな蜘蛛がいて往来の人びとを悩ませたが、射芸の達人狩場刑部左衛門が退治し、「蜘蛛取坂」というようになったという話を紹介している。

那智山側の起点ともいうべき妙法山は、死者の霊の集まる山として信仰される。『紀伊続風土記』は「人死する時は幽魂必当山に参詣すといふと、恠しき事なと眼前に見し人もあり」と記す。この山頂の奥院(十万浄土堂)あたりはしきみ山ともいわれ、亡者の魂は、枕飯の炊ける間に枕元に手向けられた樒の一本花を持ってここに詣で、樒を落としてゆくのでこの山が出来たとの伝承や、また「人なきに鳴る」といわれる「亡者の一つ鐘」もある。
このような死者の世界に通ずる雲取越は死出の山路でもあった。妙法山奥院御詠歌に「くまの路をものうき旅と思ふなよ死出の山路でおもひしらせん」と詠われ、巡礼はまた「ここも旅また行くさきも旅なれやいづくの土にわれやなるらん」と詠いつつ参詣札を打ち、「極楽行の血脈」をうけてから九里八町の雲取越に向かうという。
熊野詣の人びとや巡礼が、この雲取越の途中、亡き両親に再会したとの話が伝えられている。現在通る人もなくひっそりと続く雲取越の途中に、草に埋もれてのこる石仏や、行倒れた道者の墓に死出の山路の雲取越のかつての姿をしのぶことができる。

(M・K)

小雲取山を越えて本宮に下る小雲取越


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初出:『月刊百科』1983年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである