秋山郷は、新潟県中魚沼郡津南町より信濃川(上流は千曲川)の支流中津川を渓谷に沿って溯り、長野県下水内郡栄村に入り、中津川の支流と源流である雑魚川・魚野川の合流点に至る間の峡谷に散在する一五の集落を含んだ信越国境の地域をいう。岐阜県の白川郷、宮崎県の椎葉などとともに平家の落人村といわれている。文政一一年(一八二八)越後の人鈴木牧之はこの地を訪れたが、その「秋山記行」の自序には
世挙て、信越の境秋山をさして平家の落人と唱来たれど、
平氏は何れの後胤と云ふ其素性だに知るものなし
とあり、探訪の動機が歴史的関心に根ざしたものであることを暗示する。
秋山郷の一部は、平安時代から中世末に至るまで志久見郷に属していた。志久見郷の文献上の初出は、建仁三年(一二〇三)九月二三日、鎌倉幕府が中野能成なる者へ以前のように「信濃国春近領志久見郷」の地頭職を安堵したという文書である。中野氏は平安時代末期には信濃国高井郡の北部に勢力をもった土豪で、その所領は「へいけの御下文」をうけており、のち木曾義仲、さらには鎌倉幕府の御家人となった家柄である。それは、文永年間(一二六四‐七五)に中野氏のあとを譲り受けてこの地を領有した市河氏の伝える市河文書によって、推測されている。また同文書の寿永三年(一一八四)三月六日、源頼朝の弟阿野全成が中野助弘に与えた下文では、「信濃国志久見山」と記している。
志久見山は、平安時代から鷹が巣を営む山、巣鷹山の地域であった。巣鷹山は貢租の対象となる鷹の生産のため設けられたもので、元来入山禁止の留山である。一方これに対して住民の農耕・居住などのため、巣鷹山のうちで必要個所には入山を許した。これを明山(「あきやま」とも)という。明山は鷹の営巣と住民の必要によるため散在し、かつ境域はつねに変動していたといわれている。ちなみに宝暦九年(一七五九)の「木曾雑話」には、「木曾惣山、三ヶ村山共、御留山、御巣山之外は都て明山と相唱、御停止木、遠慮木之外は其村方より屋作木、薪木に伐取」と記されている。
巣鷹山と明山の境界をめぐる争いのことが、市河文書の寛喜元年(一二二九)の佐衛門少尉兼政書状ならびに守護北条重時御教書にみえる。これは、志久見山の領主中野能成と隣郷計見郷の領主木島兵衛尉との間で、鷹の子の盗難をめぐって行われたものである。とくに守護北条重時の御教書の端裏書に「あけ山の事」とあり、書面には
兼ねてまた志久見の内の山を方々より堺を越し、自由に任せ狩などをし、狼藉あるべからざるの由、下知せしめ給ふべき旨候なり
と記されている。これは裏返していえば、従来志久見山が境界不分明の地あるいは変動性のある地であって、出入自由の慣習があったところとも受けとれる。そこで鷹の子盗難事件は、留山である巣鷹山と、これに対する明山のもつ性質に帰因するものと考えられる。元亨元年(一三二一)の市河盛房の子助房への自筆譲状にも
あけ山ハ往古よりさかいをたてわけさるあひた、いまはしめて立にくきによりて、こあかさわ十郎ニたふよりほかに、兄弟ともにもわけあたゑぬ也、さいもくとり、れうしなといれんニ、わつらいをいたすへからす、
とある。すなわち、「あけ山」はむかしから境を立てずにきたため、いまこと新たに境を設け、分割配分はしない。また材木とりや猟師を入れて紛争を起さないようにと、配慮されていることがわかる。そして、ここでいう「あけ山」とは、さきの北条重時御教書にみられる「あけ山の事」とあわせ考えると、「あけ山」という土地の固有名と、いわゆる明山の性質をもつ土地という意味を兼ねそなえているともみられる。
ところで明山の土地利用はいかなるものであったろうか。昭和二六年(一九五一)の調査によると、秋山郷では全農家の七四パーセントが焼畑耕作に従事していた。秋山では焼畑のことをカンノといい、原野をきり拓くことをカンノキリ、これを焼くことをカンノヤキと称していて、カンノヤキのころは沢のあちこちに煙が上ったという。
焼畑のことは「秋山記行」にも詳しくその方法が記されている。焼畑耕作では耕地を次々と移動するため、秋山では江戸時代まで永久耕作地がほとんどなかったと推測されている。したがって耕地は徴税の対象とはなりにくく、また普通の農村にみられるような検地帳・土地名寄帳の類も存在しなかった。
なお、下水内郡栄村箕作に残る元和八年(一六二二)八月の島田文書には、「為秋山役、檜物・札板・しな縄以下御用之時者、此印判可遺候条」とあるように、秋山役と称して材木の伐取は、代官の証判なくしてできなかった。
(Y・O)
初出:『月刊百科』1980年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。