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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第74回 草津
【くさつ】
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由緒ある高原の温泉地
群馬県吾妻郡草津町草津
2012年12月21日

群馬県は大半が山地である。那須・鳥海両火山帯の南端にあたり、湯泉地帯をなしている。本白根もとしらね山は北西部で新潟・長野との県境をなす三国山脈に連なり、標高二、一六五メートル。東側へ扇状になだらかに傾斜する。この山腹の標高一、二〇〇メートルあたりに草津の地がある。
古くは「草津」のほかに「九草津」「草生津」「九相津」とも記すから、「くそうづ」と呼ばれたことがわかる。現地では今でも「くさづ」と訓む。
「くそうづ」は、温泉より発生する硫化水素の強い臭気によるという(萩原進『草津温泉史』)。湧水を「そうず」「しゅうず」「しよず」などというから、「くそうず」は「臭い泉」の意味である(谷川健一編『地名の話』)。ちなみに、秋田県の草生津くそうづ川、山形県の草津くさつ草津くさつ川、新潟県の草生津くそうづ草水くそうず臭水くそみずなど、いずれも石油含有土のあった土地の名や、そこから流れ出る川の名である。
この地に「くそうず」を発見したのは行基菩薩(光泉寺縁起)とも、源頼朝(草津温泉来由記)とも伝えるが不詳。

文献上に草津の名が見えるのは室町時代にはいってからであり、すでに保養・治療の地として現われる。文明一八年(一四八六)、越後の柏崎から三国峠を越えて上野国に入った歌人堯恵は、旅日記『北国紀行』に

重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、(略)是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、詞もつゞかぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし

と記す。また明応四年(一四九五)上野国金山かなやま城主横瀬成繁が草津へ行ったことが『松陰私語』にみえる。

嫡子成繁者四月十三日草津へ湯治、可走廻被官人等三百余人供奉、金山者弟四郎只一人在城、大油断之時分也、

迂闊にも湯治のために城を空にしてしまったというのである。

草津は時代が降るにつれ、その名が広く知られるようになった。大永年間(一五二一‐二八)には「三国一之名湯候」とまでいわれている(「上杉家文書」一二月一六日長尾顕景書状)。戦国時代、戦傷者の治療に特に利用されたものであろう。永禄一〇年(一五六七)上州攻略を進めていた武田信玄は、この年の六月から九月までの間、次のように一般の入浴を禁じている(黒岩嗣佐喜氏所蔵文書)。

自来六月朔日至于九月朔日、草津湯治之貴賤一切停止之畢、近辺之民依于御訴訟申、如此被仰出候者也、依如件、
永禄十年丁卯   跡部大炊助奉之
   五月四日(朱印)
      三原衆

武田方の将兵の入浴を優先させるための処置であったのであろう。
天正一八年(一五九〇)一二月、沼田城主真田信之は、この地に湯本三郎右衛門とその同心三一名に対し、計四五八貫四三六文の給地を与えた(熊谷家文書)。湯本氏の出自は不明だが、この地の伝統的な豪族といわれる。草津は沼田城主真田氏の支配下、重臣湯本氏の給地として江戸時代を迎える。天和元年(一六八一)真田氏が改易されるに及んで、天領に編入された。寛延二年(一七四九)牧野駿河守領となったものの、翌年再び天領にもどされ明治に至る。

文化二年(一八〇五)江戸の国学者清水浜臣が、善光寺参りの帰路草津に立ち寄った。その旅日記『上杉日記』は村の様子を次のように記す。

こゝは山里といふか中にもいとふかき山里にて、田畑といふもの四方七八里かあひたにみえす。米なとすへて十里もへたてたる所よりはこふ也、さるにあはせてはひと里のにきはひいといかめし。まつ家居すへて四百軒にあまるとかや。大きやかなるか四十はかりは三階つくり也。旅人やとすつほね百五十つゝもつくりつらねたり。皆しかそある。髪ゆはす家五つ、小弓ひかす所十軒あまり、酒のみてゑひあそふへき家七八軒あり。

この頃は繁栄の絶頂期にあたるという。温泉地としての賑わいに比べて、この地での生活は厳しい。村高をみると「寛文郷帳」(一六六八年)で七八石八升五合、「上野一国高辻」(一七〇三年)で四四石三斗三升一合、「天保郷帳」(一八五四年)で五〇石七斗三升六合と低い。「寛文郷帳」では、草津村に「畑方」と注記する。硫黄の影響をまぬがれる地に、少しばかりの畑がひらかれていたものであろうか。
この山間の地は、とても一年中居住できるものではなかった。「是地極て寒し、十月より四月始までは、小雨村に住す」(『上野国志』)と、冬は番人を残すのみで、峠越し東南二里の地の小雨こざめ村(現六合村)に移住した。「草津冬住村」とも呼ばれた小雨村は、草津村との標高差四〇〇メートル余、山間とはいえ南斜面にあたる日当りのよい地にある。この冬住みの制は、のちに旧暦一〇月八日に下山、四月八日を登山の日として、明治三〇年(一八九七)まで続いたという(『草津町郷土誌』)。

 

(K・T)

標高1200メートル内外の高原に展開する草津温泉街


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初出:『月刊百科』1979 年11 月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである