日本歴史地名大系ジャーナル知識の泉へ
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第93回 高瀬
【たかせ】
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難波と大和を結ぶ要所
大阪府守口市
2013年11月15日

現守口市域は、縄文時代前期(約七千‐六千年前)には海が大阪平野に広く浸入していたため(河内湾)、海面下にあった。同時代前期末から中期(約五千‐四千年前)になると、流入する淀川と大和川が三角洲をつくり河内湾が縮小、さらに晩期から弥生時代前半(約三千‐二千年前)には砂洲がさらに北に延びて湾口が狭くなり、縮小した水域は河内潟とよばれるような状態となった。守口市域の遺跡は現在のところ縄文晩期がいちばん古く、河内潟の時代から歴史が始まったとみられる。生駒山麓からこの低湿地帯へと徐々に人々の移動が始まったのであろう。それはまた水稲耕作伝播の時期でもあった。古墳時代前期、河内潟は縮小して淡水湖(河内湖)と化し、七世紀後半から八世紀にかけての頃にはさらに干潟化が進んでいくつかの湖沼となっていた。

その頃淀川は現在の寝屋川と古川の川筋を通ってこれらの湖沼に流入、湖沼群の末端は現淀川筋をとる淀川の一分流と合体して大阪湾に流出していたと考えられている。この淀川に臨む地域、現在高瀬神社(式内社)のある一帯をやがて高瀬とよぶようになった。

高瀬は難波津なにわのつや難波宮と大和を結ぶ交通の要所であり、また淀川水上交通の拠点として早くから開けた。『播磨国風土記』賀古かこ郡の条に、大帯日子命(景行天皇)が息長命を媒介人として、印南いなみの別嬢に求婚するため播磨へ行く時のことを記して、「摂津の国高瀬のわたりに到りまして、此の河をわたらむと請欲はしたまひき」とみえ、渡守の紀伊国人小玉が渡賃を要求したとある。また「住吉大社神代記」の長柄船瀬本記に長柄ながら(淀川改修以前の淀川と中津川の分岐点辺り)の船瀬(港津)の東限として「高瀬大庭」とあり、高瀬は北方に位置する大庭おおばとともに長柄の船瀬の一角を占めていた。

『行基年譜』の「天平十三年記」には高瀬大橋がみえ、生駒いこま越の道として「直通一所 在自高瀬生駒大山登道」が載る。このほか『行基年譜』には高瀬橋院、「高瀬堤樋 在茨田郡高瀬里」がみえ、当地と行基の関係が深かったことがうかがわれる。「直道一所」はのちの清滝街道にほぼ該当すると推定され、同街道は清滝峠(現四條畷市)で生駒山を越え、やがて川原(現生駒市)に至るが、川原から東進すると天平一三年(七四一)当時の都である南山城の恭仁くに京(現京都府相楽郡木津町・加茂町)に至るという重要な道であった。行基がこの道の改修あるいは整備に関係したことは事実であろうが、道そのものは行基以前からあり、古くから河内北部と大和北部を低い峠越えで結ぶ道として利用されていたと思われる。

行基の高瀬橋架橋も事実であったとみられ、橋頭に建立された高瀬橋院の跡地は高瀬神社近くに比定される。跡地からは奈良時代の屋根瓦が出土、薬師・薬師道・寺道・楼門・鐘楼堂などの字名がある。同寺がいつ頃まで存続したかは不明だが、現在守口市内には高瀬橋院の遺跡・法灯を継ぐと伝える寺院が三寺ある。なお長岡京造都中、推進者藤原種継が暗殺された事件に連座した早良親王は、淡路島へ配流されることになり、幽閉中の乙訓おとくに寺(現長岡京市)を出、乗船して淀川を下る途中、高瀬橋頭に至るまでに絶命したという(『水鏡』)。

高瀬は古代律令制下では一郷を形成したが、住人のなかにはにえ人がおり、神楽歌「薦枕」に「薦枕 いや 高瀬の淀に や あいそ 誰が贄人ぞ 鴫突き上る 網下し 小網さでさし上る」と歌われた。また高瀬の淀は都人に知られた名所で、次の歌がある。

篝さす高瀬の淀のみなれ棹  とりあへぬ程に明くる空かな   藤原教雅(『続後撰集』)

菰枕高瀬の淀に刈る菰の  刈るとも我は知らで頼まむ    (『古今六帖』)

高瀬郷には平安時代中頃、山城神護寺領高瀬庄が成立、鎌倉幕府ができると本補地頭が置かれた。院や公家寺社勢力の強い河内では、本所や庄民の抵抗で地頭が設置された庄郷は数少なかったが、同庄はその一つであった。高瀬庄は正治二年(一二〇〇)の史料まで登場するが以後姿を消し、代わって小高瀬こだかせ庄がみえる。当地は中世にも交通上の要地であり、貞応二年(一二二三)三月に檜物供御人らに対し摂津・河内の市津料を免除した蔵人所牒に「真(茨)田郡内榎並・高瀬等」とみえる。

近世初期には一帯は小高瀬村とよばれ、のち小高瀬を冠した大枝おおえだ村・世木せぎ村・馬場ばば村となった。

 

(H・M)

奈良盆地から清滝峠で生駒山を越え、真っ直ぐ東に進んで淀川に突き当たる地が現在の守口市


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初出:『月刊百科』1986年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである