現守口市域は、縄文時代前期(約七千‐六千年前)には海が大阪平野に広く浸入していたため(河内湾)、海面下にあった。同時代前期末から中期(約五千‐四千年前)になると、流入する淀川と大和川が三角洲をつくり河内湾が縮小、さらに晩期から弥生時代前半(約三千‐二千年前)には砂洲がさらに北に延びて湾口が狭くなり、縮小した水域は河内潟とよばれるような状態となった。守口市域の遺跡は現在のところ縄文晩期がいちばん古く、河内潟の時代から歴史が始まったとみられる。生駒山麓からこの低湿地帯へと徐々に人々の移動が始まったのであろう。それはまた水稲耕作伝播の時期でもあった。古墳時代前期、河内潟は縮小して淡水湖(河内湖)と化し、七世紀後半から八世紀にかけての頃にはさらに干潟化が進んでいくつかの湖沼となっていた。
その頃淀川は現在の寝屋川と古川の川筋を通ってこれらの湖沼に流入、湖沼群の末端は現淀川筋をとる淀川の一分流と合体して大阪湾に流出していたと考えられている。この淀川に臨む地域、現在高瀬神社(式内社)のある一帯をやがて高瀬とよぶようになった。
高瀬は
『行基年譜』の「天平十三年記」には高瀬大橋がみえ、
行基の高瀬橋架橋も事実であったとみられ、橋頭に建立された高瀬橋院の跡地は高瀬神社近くに比定される。跡地からは奈良時代の屋根瓦が出土、薬師・薬師道・寺道・楼門・鐘楼堂などの字名がある。同寺がいつ頃まで存続したかは不明だが、現在守口市内には高瀬橋院の遺跡・法灯を継ぐと伝える寺院が三寺ある。なお長岡京造都中、推進者藤原種継が暗殺された事件に連座した早良親王は、淡路島へ配流されることになり、幽閉中の
高瀬は古代律令制下では一郷を形成したが、住人のなかには
篝さす高瀬の淀のみなれ棹 とりあへぬ程に明くる空かな 藤原教雅(『続後撰集』)
菰枕高瀬の淀に刈る菰の 刈るとも我は知らで頼まむ (『古今六帖』)
高瀬郷には平安時代中頃、山城神護寺領高瀬庄が成立、鎌倉幕府ができると本補地頭が置かれた。院や公家寺社勢力の強い河内では、本所や庄民の抵抗で地頭が設置された庄郷は数少なかったが、同庄はその一つであった。高瀬庄は正治二年(一二〇〇)の史料まで登場するが以後姿を消し、代わって
近世初期には一帯は小高瀬村とよばれ、のち小高瀬を冠した
(H・M)
初出:『月刊百科』1986年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである