忍城は四方を池沼によって囲まれ、浮城の別称があった。永正六年(一五〇九)一〇月、連歌師柴屋軒宗長は年来の望みであった奥州白河関を訪れ、その帰途忍城で連歌の千句興行を行った。宗長は「あしかものみきはは雁の常世かな」と詠じ、「水郷也、館のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の霜かれ、廿余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたりたるさまなるへし」(『東路の津登』)と、忍城の冬枯れの光景を描写している。
忍城のあった
市域の南部には、辛亥銘鉄剣などの出土で知られる稲荷山古墳を含む
忍城は長尾景春の乱中、文明一一年(一四七九)閏九月二四日の足利成氏書状(別符文書)にみえ、景春を支援する古河公方足利成氏は別符宗幸に対し、忍城の防備について成田顕泰と相談するよう命じている。成田氏は熊谷市東部から行田市西部にかけて所在した成田郷を本貫地とする。始祖助高の嫡男助広が成田氏を継ぎ、次男行隆は別符氏、三男高長は奈良氏、四男助実は玉井氏の始祖となった。
成田氏は忍城を本拠として関東管領上杉氏、新興勢力である小田原北条氏、越後上杉氏との間に二転三転の去就を繰返しながら、親泰・長泰・氏長の三代、約一〇〇年を経た。永禄一二年(一五六九)上杉輝虎(謙信)と小田原北条氏との間で越相同盟が結ばれたが、同盟の破綻後成田氏長は小田原北条氏につき、忍城は北条氏の支城となった(「成田系図」龍淵寺蔵など)。
天正一八年(一五九〇)四月、豊臣秀吉により小田原城が包囲されたが、このとき成田氏長は一千騎を率いて小田原城に詰めており、氏長の叔父泰季を城代とする忍城は、武蔵北東部の北条方の拠点として豊臣方の大軍に激しく抗戦し続けた。城中には五〇〇余の侍・足軽、三〇〇余の雑兵・町人・百姓などが立て籠っていたという(『忍城戦記』など)。攻撃軍の大将は石田三成であったが、要害堅固の忍城を攻めあぐね、「忍之城之儀、(中略)諸勢水攻之用意候て」(六月一三日「石田三成書状」浅野家文書)とあるように、水攻めの戦法をとることになった。
水攻めについては、応仁・文明の乱中の文明一五年(一四八三)八月、畠山義就が河内国
忍城の場合、城を土塁で囲んだ中に利根川と荒川の水を引入れる計画が立てられた。六月七日の下見のあと、昼は一人六〇文・米一升、夜は一〇〇文・米一升の米銭で人夫を徴集し、一一日から水を入れたと伝える(『忍城戦記』)。土塁は一四キロにも及び、現在も一部が残存して石田堤とよばれている(県指定史跡)。しかし七月に入っても城は陥ちず、秀吉も「忍面へ早々相越、堤丈夫ニ可申付候」(七月六日「豊臣秀吉朱印状」上杉家文書)などと述べている。小田原城が陥ちたのちも持ちこたえたが、七月中旬激戦の末ついに開城、武蔵の戦国時代は終りを告げた。
天正一八年八月関東に入部した徳川家康は、三河以来の股肱の家臣を要地に配し、忍城には城整備のために松平(深溝)家忠が入った。寛永一六年(一六三九)阿部豊後守忠秋が入城した頃には城の規模も成田氏時代と変わらず、「大木繁り黒々候は本城難知」(石岡道是覚書」阿部家文書)という要害であった。城の北東には中世以来の城下町である行田町が発展をみせていた。元禄年間(一六八八‐一七〇四)以降大名居城としての体裁も整ったが、内曲輪周辺の屋敷地では「居住の士城主の所に出仕するには多く堀中を舟行して赴」き、また「堀幅殊に広くしてなかなか堀を隔ては互に人声のとどかざる程」の場所もあり(『甲子夜話』)、中世の面影を留めていたようである。
明治六年(一八七三)の城破却後は城濠も漸次埋め立てられ、現在は南部の大沼のみが水城公園として整備されている。
(K・T)
初出:『月刊百科』1993年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである