そのような地域が日本=ヤマト主導による二つの事件を契機に日本社会に段階的に編成・編入されていくのであるが、問題は、その編成・編入のプロセスにおいて生じた琉球・沖縄の側の反応の問題である。
近世琉球の具体的な内実はさておくとして、少なくともその時代の王国エリート層は、王国体制が保持されているかぎりにおいて中国(清朝)と日本(幕藩体制)に対する異なった相での従属関係を許容していた。例えば、薩摩(鹿児島藩)や将軍権力に従属することを拒否し、王国の政治的な自立化を目指すような組織的な運動が存在した証拠は見つかっていない。
琉球処分=沖縄県設置前後には日本への編入に反対する諸運動が起こっている。中国に亡命し王国復旧の嘆願運動(脱清運動)を行った処分反対派が目指したのは、琉球の新たな国家ビジョンだったのではなく、中国と日本の双方に旧来通りの従属的関係を有する王国体制の存続あるいは復活であった。王国の継続こそが彼らの悲願であり、それの否定を意味する日本政府(明治国家)による一元的体制(沖縄県)に回収されることだけは許容できなかったのである。
日清戦争直後には、侯爵の身分で東京に居住する旧国王(尚泰)とその後継者を世襲的な知事とする特別制度の実現を求める公同会の運動が起こっているが、その主張はたちまち頓挫を余儀なくされている。このように、近代沖縄において、沖縄が日本に属することに反対するか、もしくは特別制度の設置を求めて組織的な運動を行ったのは琉球処分反対勢力と公同会派のみであり、それ以外の主張群は個々人の精神の内側に留め置かれた。
周知のように、特別制度という事態は、日本の第二次世界大戦における敗戦の結果として生まれる。沖縄の施政権を日本から分離し、二七年間に及んだアメリカによる排他独占的な統治時代がそれである。このアメリカによる統治と基地化のプロセスにおいて、沖縄の圧倒的多数の住民が最終的に選択したのは独立やアメリカの保護国のような地位ではなく、「祖国」(日本)への復帰であった。復帰という選択は日米両政府による強制や誘導によって行われたものではなく、あくまでも住民による主体的な意思であった。確認しておきたいのは、「祖国」復帰を選択する過程において、琉球処分から沖縄戦までの沖縄県時代、すなわち日本の一部だった近代沖縄の時間に対する評価は、日本復帰の選択をためらわせるほどネガティブなものではなかったということである。
そして、一九七二年五月一五日を迎え、再び沖縄県体制が復活する。あれから三〇年余の歳月が過ぎたが、その間において日本からの分離や独立を求める政治勢力が組織化されたことはなく、それを主張する政治運動も生じていない。
「日本の一部であることを沖縄の住民が受け入れているがゆえに、沖縄は日本の一部なのである」と私が言うのは、以上に述べた認識をふまえたうえでの規定である。この前提に立たなければ、私が提示する琉球史の五時代区分法と総括的認識は成立根拠が弱くなる。
いつ、どのような経緯で日本に属することを受け入れるようになったかについてはここでは割愛するが、一般に流布している認識に従えば日清・日露の戦間期が大きな転換点である。清国の敗北と日本の勝利、沖縄県統治体制の確立、近代教育制度の定着などを通じて、「琉球の沖縄化」「琉球人の日本人化」が全体として達成された時期に当たるからだ。
長い先史時代を経て独自の国家(琉球王国)を形成した古琉球の時代は、中世日本には含まれず、ましてや同時代の中国の国家(明朝)にも含まれない独自の時間であった。したがって、それを破った薩摩軍の侵攻は琉球に対する明らかな「侵略戦争」と規定できる。
では、その二七○年後に起こった琉球処分は「侵略」「併合」という言葉で語られるべきものなのか、それとも「民族統一」の性格を持つものとして語るべきものなのか。琉球処分をめぐる多様な議論や評価があることは私も承知しているが、留意したい点は、その後の歴史過程において沖縄住民の圧倒的多数が日本の一部であることをしだいに受け入れたことである。
そう認識するがゆえに、独自の存在だった古琉球の段階から二つの事件を契機に、すなわち近世琉球・近代沖縄の時代を経て段階的に日本社会に編成された、と規定したのである。この規定は、住民意思により沖縄が日本に属するという現実──歴史家に与えられた所与の前提──に立脚したものであり、そこには私の個人的な思いやこだわりが含まれる余地はない。
しかし、安良城盛昭が指摘したように、沖縄の日本への復帰は一九七二年で終わったわけではなく、果てしないプロセスとして今なお進行中である。私の言葉で言えば、日本社会そのものが沖縄を含みつつ不断に形成され続けているのであり、固定化され硬直化した日本像に沖縄を委ねることは沖縄だけでなく日本にとっても不幸な事態といえる。独自の歴史過程を経て日本に属する沖縄がその独自性を捨てて、沖縄を含まない狭義の日本像に同化することのほうがむしろ困難である。
だが、『琉球の時代』を書いた時点からすでに二○年余が経過しており、この間の沖縄社会の変容は著しい。そのなかで私が注目する点の一つは、「沖縄住民」というカテゴリーが確実に変化し始めていることである。例えば、予想されたことではあるが、日本本土(ヤマト)から沖縄に移住して生活する人の数が増加している。当然のことながら、両親のどちらか一方が本土出身者である子供の数もまた増加している。それに比べると数は少ないかもしれないが、アメリカ人を父とし、沖縄の女性を母に持つ子供たち(アメラジアンという造語で形容される)もまた沖縄社会の担い手として確実に存在する。
『琉球の時代』で古琉球像を中心に私が描こうとした沖縄の自画像には、沖縄の「われわれ」という暗黙の前提があり、この「われわれ」の中に本土出身者やその子供たち、アメラジアンは含まれていなかった。そのような人々の存在を排除したところの「われわれ」のための自画像を提示し、地域アイデンティティの根拠を示すことに終始したのである。歴史を記憶し、歴史を受け取るべき主体は、あらかじめ想定された者同士だとの思い込みがあったのだと思う。
こうした限界を克服できる琉球史論をどのように構築すべきか、正直言って私はまだ明確な展望を持っていない。日本に属することを沖縄の住民が受け入れているという場合、私が想定しなかった右の者たちの意思をどのように担保できるだろうか。
私が思いついたのは、沖縄論・琉球史論を自己/他者意識を前提とする「われわれ」の側のものとするのではなく、多様な出自や立場の人々が自由に参加できる開かれた場とすることである。沖縄の特性をより深く議論できる人、琉球史像をより豊かに描くことができる人、その人がいわゆるウチナーンチュであるかどうかを問わない、そのような知の場を確立することから始めるべきだと思っている。
そうした作業の必要性を重視するとき、出自や立場を超えて琉球・沖縄を語る者たちが共通論題として扱うべきテーマは、過去の経緯や特質の問題をふまえつつ、そのうえでどのような将来像を描くかにあるのだと思う。特に、日本に属することの意味を問うだけではなく、これからの日本の在りように沖縄がどのように参画できるかを問題とすべきだと考える。沖縄を含んで不断に形成され続ける日本社会という認識からすれば、将来にわたるその形成過程に対して沖縄という地域の意思をどう反映させるかが問われてくる。
歴史家の領分から逸脱した議論と受け取られたようだが、二○○○年(平成一二年)三月に私が中心となりある国際会議で提起した「沖縄イニシアティブ」は、沖縄の将来像を描く作業に様々な立場の人が自由に参加できる場と話題を提供するための仕掛けの一つであった。関連する文章とともに『沖縄イニシアティブ──沖縄発・知的戦略』(二○○○年、ひるぎ社、真栄城守定・大城常夫との共著)と題して出版したが、そのなかで次のような論点を提示した。
全体的な将来ビジョンの問題として、日本がアジア太平洋地域の平和と安定を担う積極的な責任主体となり、ソフトパワーとして独自の貢献を果たせる存在になるべきだとした。そのためには、沖縄という地域に対する再評価と活用法を真剣に検討すべきだとしたうえで、ひるがえって沖縄の側の課題を次のように指摘した。
「沖縄が自らの過去・現在・未来に対して積極的な自己評価を与えることであり、日本社会の一員としての自己の創造的役割を定義することであり、アジア太平洋地域の中でどのような役割を発揮できるか、その際の自己像を明確にすることである。つまり、沖縄そのもの、あるいは沖縄を取り巻く様々な環境や規定に対して自らのイニシアティブを積極的に発揮すべきだと考える」 そのうえで自己像を描く前提となる歴史的な経緯を整理し、将来を語るためにはそこから導かれる「歴史問題」や「地域感情」に拘泥するのではなく、その思いを将来を語る普遍的な言葉として磨くべきだとした。
その例示として沖縄の基地問題を挙げた。アメリカ軍の沖縄基地はたしかに戦後のアメリカ統治時代と沖縄戦の記憶に深く絡む問題ではあるが、現在から将来にわたる論点としてより優先的に論ずべき点は、日本の安全保障をどう考えるかという問題である。しかも、当面する現実の事態として日米同盟があり、その同盟関係を通じて日本政府が提供義務を負うところの沖縄基地が存在する。
安全保障の将来をどう描くかは政治的な立場により異なってよく、自由な論議が戦わされるべきだ。その際に大事にしたいのは、沖縄基地と日米同盟、そしてこれに連動する日本の安全保障のあり方について自分の立場を明確にして臨むことである。「沖縄イニシアティブ」において私は、当面の安全保障政策として日米同盟が不可欠なこと、同盟により定義されている沖縄基地の存在理由を原則として評価する立場を鮮明にした。予想していた通り、学者・文化人・市民運動家の側からおびただしい批判と中傷を浴びせられ続けている。
しかし、新しい時代にふさわしい琉球・沖縄の自己像・自画像をどう描くかという課題のほうは、依然として横たわり続けている。この課題にとって、沖縄が日本に属していること、今後の日本形成のプロセスに沖縄が積極的に参画してその役割を果たすべきだという問題は、いわば必須の論点として存在する。
私もまたその論点を確認しつつ、模索を繰り返す一人であり続けたいと思う。
初出:『歴史地名通信』<月報>49号(2005年・平凡社)
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