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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第16回 木更津 
【きさらづ】
9

出合いと別れの舞台
千葉県木更津市
2008年05月16日

 「しがねえ恋の情けが仇」の名せりふで知られる当り狂言「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」(三世瀬川如皐作、通称「切られ与三」)は、上総木更津の名を一躍有名にした。江戸の伊豆屋の若旦那与三郎がお富を見初める羽織落の所作が印象的な「木更津浜辺の場」から物語は始まる。木更津は東京湾の東側、房総半島のほぼ中央部の西海岸に位置し、江戸とは指呼の間にあった。

 木更津の地名は、茂原(もばら)三ヶ谷(さんがや)永興(えいこう)寺の本尊釈迦如来像胎内文書に含まれる文永一〇年(一二七三)六月一八日の奉納願文に「きさらすの女房」とみえるのが早い。ほかに「来去津」(清浄光寺蔵「時衆過去帳」貞和四年八月一八日)、「木佐良津」(鎌倉本覚寺蔵応永一七年一一月八日付梵鐘銘)などと表記され、「木更津」に落ち着くのは元禄期(一六八八‐一七〇四)以降とされる。茂原市藻原(そうげん)寺の「仏像伽藍記」によると、文和二年(一三五三)七月二二日に木更津から妙光(みょうこう)寺(藻原寺の旧号)四天王像造立のための御依木が到来している。前掲の永興寺本尊の胎内文書などからも、当地と房総半島東岸の茂原方面とを結ぶ交通路が発達していたことが想像される。
この頃湊としては南方の古戸(ふんと)(現富津市)が繁栄していたらしく、木更津の南側に位置する波多沢(はたざわ)村(現木更津市)から金沢(かねさわ)称名(しょうみょう)寺(現横浜市金沢区)に納める年貢の一部が古戸問料として支払われており(応安三年一〇月三日「周東郡波多沢村検見帳」金沢文庫文書)、中世鎌倉の外港として栄えた六浦(むつら)(現同区)と結ぶ津があって、問丸が荷を扱っていた。文明一六年(一四八四)九月には称名寺の僧が風渡(古戸)から陸路で当地を通過している(「鏡心日記」同文書)。京都聖護(しょうご)院の道興も同じく陸路で「ふと」から当地を経て吾妻(あづま)(現木更津市)に向い、「爰にふと木更津の郷過れとも猶あつまのうちとこそきけ」(『廻国雑記』)と戯れに詠じている。

 江戸時代には江戸から安房方面に向う往還の継立場であり、また湊からは安房や西上総一帯からの物資が積出された。往還は木更津地内で寺町通、旅籠屋(はたごや)通、海岸通の三本に分かれ、「木更津千軒」といわれるほど寺院・商家・土蔵・旅籠・茶屋が立並び、木更津船によって江戸の風俗・文化が直接入り込むため、小江戸の観を呈したという。木更津船とは当地と江戸を結んだ船のことで、五大力(ごだいりき)船が用いられた。五大力船は長さ三一尺(約九・四メートル)から六五尺(約一九・七メートル)ほどの小型廻船で、長さに対して幅は若干狭く、海から川に乗り入れて江戸市中の河岸に着けた。
木更津船の由緒書(重田家文書)によれば、大坂の陣に際し、木更津村は徳川氏から水主(かこ)二四名の出役を命じられ、半数が戦死した。帰国した者は戦死者の遺族のために願い出て、大久保長安の計らいにより木更津近辺二万石の幕府領の年貢米を運送する許可が二四名の家に与えられたという。江戸日本橋船町(のち材木町に移転)の河岸場(通称木更津河岸)に間口三間の荷揚場が定められ、上総・安房への旅客の乗船権を得たと伝えられる。この三つの特権は元禄期には確立していたと考えられる。
海上九里の江戸までの運賃は米一〇〇石につき一石一斗、順風の場合で四、五時間を要した。享保六年(一七二一)頃木更津船の所持者が仲間を結成し、幕府川船役所に六八艘を登録している(『徳川禁令考』・重田家文書)。房総と江戸を結ぶ船には下総行徳(ぎょうとく)村(現市川市)を拠点とする行徳船もあったが、木更津船はとくに関所を通ることなく往来できるのが利点であった。湊の様子は木更津出身の落語家木更津亭柳勢作の木更津甚句に歌われ、この甚句は安政期(一八五四‐六〇)に江戸で流行した。
木更津海岸からは三浦半島や遠く富士山も望むことができる。風景の良さから観光地あるいは保養地としても知られ、安藤広重の「山海見立相模・上総木更津」、司馬江漢の絵馬「木更津浦之図」や洋風日本画「下総木更(上総木更津)浦晩景」などにも描かれる。お富と与三郎も浜見物に出かけての邂逅であった。

 古代においても木更津地方は交通の要衝で、官道である東海道は奈良時代初頭までは東京湾を渡って木更津市域周辺に上陸し、上総国を通過するルートが本道であった。市域の古墳からは畿内産の三角縁神獣鏡や中国製の二神二獣鏡が出土しており、三世紀中頃に畿内勢力と深い関係をもつ豪族がいたことが知られる。各地の古代の交通路周辺と同様に、市域には日本武尊にかかわる伝説が数多く残る。日本武が東征の際、走水(はしりみず)(浦賀水道)に入水した妃の弟橘比売命を悲しみ、当地を去らなかったことから「君不去(きみさらず)」とよび、のち「きさらず」になったと伝える。
現在の木更津海岸は一部を残しかつての面影はない。昭和八年の国際連盟脱退後の軍備拡大の一環として海岸線の七〇万坪が埋立てられた。木更津近辺には海軍航空隊基地や第二海軍航空廠本工場が置かれ、木更津は軍都として全国に知られた。第二次世界大戦後は臨海部に八幡製鉄(現新日本製鉄)を中心とする企業が進出した。平成九年には東京湾横断道路が開通する予定で、木更津はまた新たな物語の舞台となるだろう。

(K・T)


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初出:『月刊百科』1996年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。