天台修験の行場であった比良山から琵琶湖を俯瞰すると、北湖と呼ばれる湖の北部に浮かぶ竹生島の姿がみえる。竹生島は古来、湖海民によって神を斎き祀る「斎部島」(イツクベノシマ=チクブジマ)とみなされてきた。浄土と穢土、幽冥界と人間界を画然と隔つ境界線を示すかのように、周囲約二キロメートルの岸辺は鋭い絶壁を成している。島の南東部にある唯一の船着場から一六五段の石段を登りつめたところに、日本三大弁天の一つ
『近江国風土記』逸文によれば、
宝厳寺に伝わる縁起によれば、行基が来島して以来、天平勝宝元年(七四九)には奈良
湖東の湖海民が西方浄土に擬した比良山を西に望む島の北部には、奥行二〇メートルの洞窟があり、現在でも入口に注連縄が張られ行者が修行を行っている。現在の島の伽藍配置はおおむね南東を正面に据えているが、この島に信仰の息吹きが吹き込まれた当初、島の中心は恐らくこの北の洞窟にあったのではなかろうか。
都久夫須麻神社(祭神市杵島姫命・浅井姫命など)は『三代実録』元慶三年(八七九)三月二日条に「筑夫嶋神社」とみえ、「延喜式」神名帳に浅井郡一四座のうちの一として記載される。『帝王編年記』によれば天平宝字八年(七六四)恵美押勝の乱に際して朝廷軍を加護したとして、従五位下の神階を与えられたという。しかし平安時代に入って神仏習合が進む中で弁才天を祀るようになり、以来、明治初年の神仏分離まで竹生島弁才天社と称された。
弁才天はサラスバティー(聖河の意)というインドの女神が仏教に取り込まれて生まれた。サラスバティーはもともと大河の偉大さを神格化した豊饒の神であるとともに、手に「ビーナ」という弦楽器を携えて、言語・音楽・学芸を司る能力をも備えていた。仏教世界に生まれ変った弁才天も水に関係の深い蛇神とされ、胎蔵界曼荼羅や、鎌倉鶴岡八幡宮にある鎌倉期の弁才天像にみられるように、琵琶(ビーナ)を弾く伎楽神であった。
ところで琵琶湖の呼称と楽器の琵琶が結びつけられるのは、『竹生島縁起』にみえる「湖海者琵琶形也」との表現が最初とされる。往古、この島に修行した修験たちが、弁才天と湖海民たちの信仰の対象であった市杵島姫命とを結びつけて以後、弁才天が持つ琵琶が連想の発端となって、この島を囲む湖が「琵琶形」をしているという共通認識が生まれ、やがて湖名となっていったのであろう。
平安時代には観音信仰が広まり、国家の統制から逸脱して深山幽谷で苦行に励む聖たちの住所が霊山と称されるようになった。そして、三十三身に化身した観音菩薩が衆生を救うという観音経にちなんで、聖の拠点を結ぶ三十三所巡礼が成立した。竹生島の「聖の住所」は、応保元年(一一六一)三井寺覚忠が記した『三十三所巡礼記』に十八番札所として、また享徳三年(一四五四)に成立した『撮攘集』には現行と同じ三十番札所として掲載されている。
竹生島で現在も行われている祭礼の一つに蓮華会がある。中世以来の行事とされるが、長元五年(一〇三二)梵照が著した『慈恵大僧正拾遺伝』に、蓮華会の原型と思われるものが貞元年中(九七六-九七八)に行われていることが記されている。それによれば、法華経百部を書写し、これを弁才天に奉納した法会の後に、清僧たちが「乗船廻島散花」し、「龍頭
現在の蓮華会は毎年八月一五日に行われている。
(S・K)
初出:『月刊百科』1990年12月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである