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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第84回 深仙宿・前鬼
【じんぜんのしゅく・ぜんき】
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山伏の修行場
奈良県吉野郡下北山村大字前鬼
2013年07月05日

紀伊山地の中央を占める大峰おおみね山脈は北は桜の吉野山におこり南は十津川村の玉置たまき山に至る。その間に大天井おおてんじょうヶ岳・山上さんじょうヶ岳・稲村いなむらヶ岳・大普賢だいふげん岳・行者還ぎょうじゃがえり岳・弥山みせん仏経ぶっきょうヶ岳・明星ヶ岳・七面しちめん山・仏生ぶっしょうヶ岳・孔雀岳・釈迦ヶ岳・大日だいにち岳など一五〇〇‐一九〇〇メートルの峻峰が山列をなし、「近畿の屋根」「大和アルプス」ともよばれる。この急峻な山々を対象として奈良朝末―平安初期から役行者を開祖と仰ぐ修験道が発達した。平安中期には藤原道長ら貴族階級の御嶽詣が盛行し、寛治四年(一〇九〇)の白河上皇の熊野詣に至って頂点に達する。
山岳信仰の対象としての大峯山おおみねさん金峯山きんぶさんの称呼は、いま全く混用されているが、歴史的には山上ヶ岳の南五・五キロにある小篠おざさ宿までが金峯山、小篠から南が大峯山である。大峯山を縦走する修行を大峯奥駈けといい、南の熊野から入り北進して吉野山で終わる修行を順峯じゅんぶ、吉野から南へ進む修行を逆峯ぎゃくぶという。また、峯中には行者道にそって、大峯七十五なびきとよばれる七五の行場がある。

七十五靡三八番の行場深仙宿は釈迦ヶ岳の南、大日岳との間の平坦地で、標高約一五〇〇メートル。中世以来多くの修験者・僧俗の参籠地として栄えた。「金葉集」巻九に、「大峯の神仙(深仙)といへる所に久しう侍りければ、同行ども皆かぎりありてまかりにければ心ぼそきによめる」として僧正行尊の歌を載せ、「山家集」には、西行の「大峯のしんせんと申す所にて月を見てよみける」歌に、

深き山にすみける月を見ざりせば
思出もなき我が身ならまし

がある。また、「千載集」巻一七にみえる歌の詞書に「前大僧正覚忠御たけ(金峯山)より大峯にまかり入りて、神仙といふ所にて金泥法華経の書奉りて埋み侍るとて、五十日ばかりとどまりて侍りけるに、房覚熊野のかたよりまかり侍りけるにつけて云ひおくりける」とある。奥山に五〇日も参籠するもののあったことや、その人に歌をことづけることができるほど、深仙宿を通過する行者の多かったことが察せられる。
畔田伴存の「吉野郡名山図志」には、幕末期、板葺板壁の家二軒・鳥居・聖天社・護摩堂・香精水・水神社・三間に五間の御殿があったと記されている。

深仙宿の南、太古の辻から尾根を離れて東へ下ると、七十五靡二九番の宿前鬼である。釈迦ヶ岳に発した前鬼川が村の東側を曲流して前鬼口で北山きたやま川に入る。標高約八〇〇メートル。平安中期ごろすでに開けていた村で、役行者に従った前鬼・後鬼の子孫と伝えられる五鬼熊ごきぐま(行者坊)・五鬼童ごきどう(不動坊)・五鬼上ごきじょう(中之坊)・五鬼継ごきつぐ(森本坊)・五鬼助ごきじょ(小仲坊)の五家がそれぞれ宿坊を営んで、奥駈け入峯の先達をつとめた。彼らは代々役行者の教えを祖述しつつ、山伏に随身給仕して、峯中の宿で汲水・採薪・食事の準備等を行ない、奥駈けの荒行を裏から支えた。また、前鬼は深仙宿の食糧補給基地でもあった。
慶長一九年(一六一四)の大坂冬ノ陣に、大峯五鬼の中の善鬼(名助)が大坂城に籠ったといい、北山一揆にも前鬼の五鬼が主導的地位にたったと伝えられるので(駿府政治録)、ここに定住した山人たちが、ある意味では、地侍的な性格をもっていたことも推察される。

江戸時代の郷帳には前鬼の名は現れない。「吉野郡名山図志」等の記録や紀行によって村のようすをうかがうと、「善城(前鬼)村 五坊在、外ニ祈祷寺壱ヶ寺、毎月六日之日には五鬼坊此堂ニ而祈祷在と云」とあるほか、年一、二度前鬼五家の人々が揃って釈迦ヶ岳から大峯奥通を山上に出る習わしがあり、とくに小篠大護摩には日帰りで八里の道を往復したという。さらに「善鬼は米穀諸物池山池原村より人足出で日々往来す。多くは女人足也。善鬼村まで女往来あれどそれより上は女人禁制也」等とある。
明治九年(一八七六)の調べでは田一町六畝八歩、畑九反九畝一九歩、宅地二反七畝一八歩を所有し、戸数七戸・社一戸・寺五戸(天台宗)・釈迦堂・本堂・灌頂堂・祖師堂・籠堂、計一八戸、人数三一人、牛四となっている。これより以前の明治二年三月に、修験道五坊は京都の聖護院しょうごいんの所轄を離れ、同六年三月天台宗に所属した。

明治一六年の「村誌」(奈良県立図書館蔵)には、

本村ハ吉野郡ノ南端北山郷ト十津川郷トノ中間ニ在ル一小村ニシテ何レニ属スト云事ナク一箇独立シ、古ヘ前牛山ト云ヒ、中古以来前鬼ト改メ、亦タ近ク明治五年ニ至テ初テ奈良県ノ命令ニ因テ本郡第十五大区廿六小区ニ編入ス、而テ当山ノ附属地二ヶ所ヲ併セ惣称シテ前鬼村ト呼フ。

と記す。現在は小仲坊(五鬼助)のみ残り、他は退転した。

 

(S・H)

釈迦ヶ岳の南東約2.5キロメートルの山中に位置する前鬼の里


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初出:『月刊百科』1981年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである