紀伊山地の中央を占める
山岳信仰の対象としての
七十五靡三八番の行場深仙宿は釈迦ヶ岳の南、大日岳との間の平坦地で、標高約一五〇〇メートル。中世以来多くの修験者・僧俗の参籠地として栄えた。「金葉集」巻九に、「大峯の神仙(深仙)といへる所に久しう侍りければ、同行ども皆かぎりありてまかりにければ心ぼそきによめる」として僧正行尊の歌を載せ、「山家集」には、西行の「大峯のしんせんと申す所にて月を見てよみける」歌に、
深き山にすみける月を見ざりせば
思出もなき我が身ならまし
がある。また、「千載集」巻一七にみえる歌の詞書に「前大僧正覚忠御たけ(金峯山)より大峯にまかり入りて、神仙といふ所にて金泥法華経の書奉りて埋み侍るとて、五十日ばかりとどまりて侍りけるに、房覚熊野のかたよりまかり侍りけるにつけて云ひおくりける」とある。奥山に五〇日も参籠するもののあったことや、その人に歌をことづけることができるほど、深仙宿を通過する行者の多かったことが察せられる。
畔田伴存の「吉野郡名山図志」には、幕末期、板葺板壁の家二軒・鳥居・聖天社・護摩堂・香精水・水神社・三間に五間の御殿があったと記されている。
深仙宿の南、太古の辻から尾根を離れて東へ下ると、七十五靡二九番の宿前鬼である。釈迦ヶ岳に発した前鬼川が村の東側を曲流して前鬼口で
慶長一九年(一六一四)の大坂冬ノ陣に、大峯五鬼の中の善鬼(名助)が大坂城に籠ったといい、北山一揆にも前鬼の五鬼が主導的地位にたったと伝えられるので(駿府政治録)、ここに定住した山人たちが、ある意味では、地侍的な性格をもっていたことも推察される。
江戸時代の郷帳には前鬼の名は現れない。「吉野郡名山図志」等の記録や紀行によって村のようすをうかがうと、「善城(前鬼)村 五坊在、外ニ祈祷寺壱ヶ寺、毎月六日之日には五鬼坊此堂ニ而祈祷在と云」とあるほか、年一、二度前鬼五家の人々が揃って釈迦ヶ岳から大峯奥通を山上に出る習わしがあり、とくに小篠大護摩には日帰りで八里の道を往復したという。さらに「善鬼は米穀諸物池山池原村より人足出で日々往来す。多くは女人足也。善鬼村まで女往来あれどそれより上は女人禁制也」等とある。
明治九年(一八七六)の調べでは田一町六畝八歩、畑九反九畝一九歩、宅地二反七畝一八歩を所有し、戸数七戸・社一戸・寺五戸(天台宗)・釈迦堂・本堂・灌頂堂・祖師堂・籠堂、計一八戸、人数三一人、牛四となっている。これより以前の明治二年三月に、修験道五坊は京都の
明治一六年の「村誌」(奈良県立図書館蔵)には、
本村ハ吉野郡ノ南端北山郷ト十津川郷トノ中間ニ在ル一小村ニシテ何レニ属スト云事ナク一箇独立シ、古ヘ前牛山ト云ヒ、中古以来前鬼ト改メ、亦タ近ク明治五年ニ至テ初テ奈良県ノ命令ニ因テ本郡第十五大区廿六小区ニ編入ス、而テ当山ノ附属地二ヶ所ヲ併セ惣称シテ前鬼村ト呼フ。
と記す。現在は小仲坊(五鬼助)のみ残り、他は退転した。
(S・H)
初出:『月刊百科』1981年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである