日本列島のほぼ中央に位置する岐阜県は、水の国美濃と木の国飛騨の旧二国からなっている。この二国は対照的な地形・風土をもつこともあって、いまも旧国名が地域の呼称として使用されることが少なくない。六十余州と表現された旧国名のうち、都道府県名として生き延びたものがただの一つもないことは、明治維新政府の徹底した近代化政策に思い至らざるを得ないが、そうしたところで長い時間使用されてきた国名の概念が、無化されるはずがないのはいうまでもないことである。
地名を改変することが、権力側にとって統治政策の一つであったことは、明治政府の例だけでなく、古く律令時代にもみられることはよく知られている。和銅六年(七一三)五月、律令政府は諸国の郡郷名を好字に改定することを命じている(『続日本紀』)。なお国名については、それ以前ほぼ和銅元年までに改定され、現在一般に使われている国名表記となったとされる。
さて、数ある国名のなかでも美濃は、とくに美しい用字と響きを備えていると思えるが、七世紀には「三野」と表記されていた。これは藤原宮跡出土の癸未年(六八三)の木簡に「三野大野評」とあることで知られる。壬申の乱(六七二)において、大海人皇子が挙兵をはかった根拠地は「三野国味蜂間評」であった。
元文三年(一七三八)の序文をもつ地誌『美濃明細記』は、当国に三野ありとして
なお、天保一四年(一八四三)に成立した『新撰美濃志』では、三野として青野・各務野のほか、大野の代わりに
次いで「三野」の表記から「御野」に改定されたのは、大宝二年(七〇二)一一月ごろと推測される。同年の御野国戸籍(正倉院文書)はこれを物語るが、「御野」は天皇の平野を意味する表記ではなかったかと考えられている。
「御野」の表記をもつ地名の一つに備前国御野郡(現岡山県)がある。同郡は古代から近世を通じて「三野」の表記と併用され、平城宮跡からは、木簡「備前国三野郡津嶋里」「御野郡津嶋□」が出土している。古代の首長勢力として三野臣氏が知られ、吉備一族を構成する有力氏族と考えられている。御野郡の名は、明治三三年(一九〇〇)
さらに現在通用している「美濃」の表記に再改定されたのは、慶雲四年(七〇七)から和銅元年の間のことである。律令国家の確立期において、「三野」―「御野」―「美濃」といったように、二度にわたる国名表記の改定が確認できるケースは、ほかにはない。ここでなぜ二度目の改定が「美野」でなかったのか素朴な疑問が生じるが、この改定は、二字の用字の中で音と訓を混在させないという原則に沿い、隣国の「科野」から「信濃」への改変と同時に行われたものらしい。つけ加えれば、「野」という言葉は、もともと山の裾野、緩傾斜の地帯を意味し(「地名と地理」柳田国男)、より開発された地帯は「原」と称したという。それは前述した四つの野のうち、青野・各務野がそれぞれ青野ヶ原・各務原に変化していることに合致している。
二度目の改定が行われたころ、当国の国守の地位にあったのは、笠朝臣麻呂であった。律令官僚の在任期間としては異常に長い一四年余を美濃守として過ごし、不破関の整備や
美濃一国と一口にはいっても、実際は多様な風土をもつが、現在行政的には大きく西濃・中濃・東濃という区分けがなされている。初めに水の国と記したが、それは木曾三川が流れ込む西濃を主に指すのであり、東濃では連綿とつづく丘陵が地形上の特徴となっている。『人国記』ですら東と西を分け、「西美濃は人の風儀柔らかに見えて、徹するところのもの少なく、言舌風流に見ゆるなり。東美濃は生得のままにして木地なり。日本の内の風俗、四、五か国の内なり」としている。
(K・O)
初出:『月刊百科』1989年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである