鳥取市街地の西方を北流して日本海に注ぐ
この千代川の河原は、江戸時代にも家並の続く鳥取城下や町裏・町端と称される城下周辺の住民にとって貴重な空間であった。鳥取藩の施設が置かれたほか、城下周辺の寺院・神社の宗教行事が行われるなど、各種の行事の場となり、人々が寄り集まった。河原は古海河原と通称され、千代川の東岸、鳥取城下の西側に位置し、
河原は古市村の領分が広く、古くは古市河原と称されていたが、江戸時代中期以後、古海渡があることから古海河原の呼称が定着したといわれる(「鳥府志」など)。古海の地名は古く、天平一四年(七四二)一二月三〇日の優婆塞貢進解(正倉院文書)に古海郷の名がみえ、「和名抄」にも登載されている。中世にも一帯に同名郷が成立し、建武四年(一三三七)五月には、足利尊氏が古海郷地頭職を前年八月の合戦で焼けた京都東福寺(現京都市東山区)に造営料所として寄進し(同月六日「足利尊氏寄進状」東福寺文書)、以降同寺領として推移した。
寛政七年(一七九五)に成立した地誌『因幡志』には、古海の地名の由来について「相伝ふ此地もと裏海なり、古海の名此に起る」とあるが、ちなみに海とは遠く離れた上野国
古海河原の南側には、承応元年(一六五二)に鳥取藩で最高の社格とされた東照宮(現樗谿神社)の御旅所が、北側には寛文一二年(一六七二)に藩主一族の休憩所として古海御茶屋が設けられた(因府年表)。御旅所の近くには、寛政一一年に家中稽古用の射場、文政七年(一八二四)には騎射場が設置されている(「在方諸事控」鳥取県立博物館蔵など)。御旅所内にも馬場があり、家中の乗馬・騎射の修業場となっていた。四月一日の
広い河原は人々の集まる場所として適し、江戸時代中期以降になると宗教行事や種々の興行が催された。宝永五年(一七〇八)
同時に勧進相撲や芝居興行、猿楽興行、曲馬興行なども盛んに開催されるようになっていく。元禄九年(一六九六)の芝居興行は高草郡の大庄屋三人の連名、翌一〇年の操り芝居興行は邑美郡の大庄屋二人の連名で、牛銀調達を目的とする旨を願い出て許可されたものであった。操り芝居見物・相撲場では喧嘩が起こることもあり、元禄一五年の相撲場では死者を出すほどの騒ぎとなっている。享和二年(一八〇二)の女曲馬興行では、女役者の容色や三味の音色に魅せられて多くの人々が河原に集まり、藩によって中止された(因府年表)。
また、鳥取城下での盆踊りは七月限りと定められていたため、踊上げと称して八月一日に町中の踊子が河原に集まり、その見物人で河原は賑わった。夏には藩主一族の慰みや客人のもてなしのため花火もあげられ、寛延二年(一七四九)大坂商人鴻池家の手代のもてなしに花火があげられたおりには、立錐の余地もないほど群衆が見物に集まったという(因府年表)。
古海河原は一揆勢の集結場ともなった。寛政三年六月一三日、魚売買を城下の
(K・O)
初出:『月刊百科』1992年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである