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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第8回 接待 
【せったい】
1

長野県小県郡和田村
2007年09月21日

 近世の中山道は六九次、上州から碓氷峠越えで信濃の軽井沢宿に入り、木曽の馬籠宿を出て美濃に入る。この間二六次、各宿の間はおよそ一、二里だが、和田宿と下諏訪宿の間は『中山道宿村大概帳』で五里一八町と最長である。両宿の間には小県郡と諏訪郡を境する和田峠(標高一六五〇メートル)があり、街道一の難所とされた。貝原益軒も宝永六年(一七〇九)成稿の『岐蘇路之記』で次のように記す。

和田より下の諏訪へ五里十六町、此間に和田嶺あり、坂長し、上下をのをの二里半余有、東坂はやすらかにして、西坂はけはし、甚除難にはあらず、三月末まで峰に雪おほし、路上にもなお残れり、嶺より東七八町にもちや村有、嶺より西五六町にもちやあり、此あたり冬は雪ふかし

 益軒のいう「もちや村」は現在も東餅屋(小県側)・西餅屋(諏訪側)の地名を残すが、東餅屋については『中山道宿村大概帳』に

一、和田峠字和田餅屋立場茶屋五軒、是ハ和田宿より登り、宿間遠、峠有付、旅人助之ため、和田宿より差出置、右茶屋壱軒付壱人扶持ツゝ、都合五人扶持、御代官御物成米之内を以被下置

とあり、餅屋は代官から扶持を与えられる旅人のための正規の施設であった。

 ところで和田宿と東餅屋の間、字深沢に接待(せったい)という地名が現存する。近世末に永代施行所の設けられた処である。
 文政一一年(一八二八)三月、江戸の道中奉行所に一通の書状が差出された。差出人は和田宿の問屋(大庄屋格)源右衛門ら計八人。趣意は「和田峠は中山道第一の難所で人馬ともに難渋すると聞いた江戸呉服町のかせ屋(加瀬屋)与兵衛が、施行所を設けたいと申出ていた。代理の者がきたので、案内して和田宿から二里六町登った長坂という処に適当な場所を見つけた。設置許可をお願いする。」というものである。同年四月五日には、当の与兵衛と呉服町五人組頭と思われる万助、名主代理人嘉兵衛の三人連名で、同趣旨の願いが差出された。
 差出状によると、与兵衛は河内国若江郡八尾木村生れ、二一歳で江戸に出て商売に成功、今は隠居で八〇歳とある。彼はすでに文政七年、相模の箱根山で人馬施行所二ヵ所の設置許可を得たが、中山道でも碓氷峠・和田峠の二ヵ所に設置を希望し、差出状に

右両所に年中馬飼葉を与、十一月朔日より十二月晦日迄日数六十日之間、人足並に貧救者に粥を触賄(フルマイ)、十一月朔日より正月晦日迄日数九十日之間、焚火施行之儀東海道箱根山中之通施行仕度奉存候

と、厳寒の峠越を援助したい旨を述べ、

金千両上納御貸附奉願上、御利息之儀は金百両宛年々御下げ致下置候ば、右百両を以て永代施行仕度奉存候

つまり自分が幕府に千両を貸すので、その利子百両を毎年施行所の費用に回して欲しいという提案である。
 設置は五月一三日に許可され、基金の実際の借主には尾張藩主がなり、利子は碓氷峠では上州側の坂本宿、和田峠では和田宿に各五〇両交付となった。

 和田宿では問屋の源右衛門と年寄の清次右衛門が五月二四日、信濃の東部・北部の幕府領を管轄する中之条(現埴科郡坂城町)代官に、施行所の場所貸渡しを承知する旨の証文を出した。また江戸の与兵衛側は借受けた土地の四方に杭を打ち、「永代人馬施行」の次第ならびに施主の名を刻した札を立てたい旨、道中奉行に申しでている。建設の人足・馬の提供など一切は和田宿が負い、与兵衛からは四一両の送金があった。建物は間口一二間・奥行五間、完成は翌一二年春の頃である。
 江戸時代の交通は幕府の道中奉行管轄下に、細部にわたる規則が定められ、たとえば街道筋での止宿は正規の宿場以外では禁ぜられている。にもかかわらず、宿間距離が長い難所などで、このような施設が設けられている。この施行所は交付金で運営する非営利的なものであろうから、今でいえば民間の福祉事業である。病者・足弱・道中金の乏しい者にとっては、まさに地名「接待」にふさわしい施設といえよう。
 施行所は嘉永四年(一八五一)六月二二日の山抜け(山津波)で流失したが、翌五年に間口九間・奥行三間で再建され、以来明治三年(一八七〇)まで存続する。

 地図を見ると、箱根にも箱根峠から三島に下る処に「接待茶屋」の地名がある。吉田東伍『大日本地名辞書』は遠江榛原郡の「摂待(せったい)」を「又接待に作る、菊川の西南、小夜中山に在り」として永仁四年(一二九五)の綸旨を引用、接待所領のあったことを記す。中世交通の要所に接待所が設けられ、往来の者に便宜を与えたことは相田二郎「中世の接待所」(『中世の関所』第十二章)が考究するが、現在新潟県長岡市にある摂田屋(せったや)の地は、上杉家文書にある志度野岐(しとのき)庄のうち「接待屋」の地であるとする。近世の接待なる地名の由来も、中世の接待所から生じた地名の由来に類似するといえよう。

(Y・O)

初出:『月刊百科』1978年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。