近世の中山道は六九次、上州から碓氷峠越えで信濃の軽井沢宿に入り、木曽の馬籠宿を出て美濃に入る。この間二六次、各宿の間はおよそ一、二里だが、和田宿と下諏訪宿の間は『中山道宿村大概帳』で五里一八町と最長である。両宿の間には小県郡と諏訪郡を境する和田峠(標高一六五〇メートル)があり、街道一の難所とされた。貝原益軒も宝永六年(一七〇九)成稿の『岐蘇路之記』で次のように記す。
益軒のいう「もちや村」は現在も東餅屋(小県側)・西餅屋(諏訪側)の地名を残すが、東餅屋については『中山道宿村大概帳』に
とあり、餅屋は代官から扶持を与えられる旅人のための正規の施設であった。
ところで和田宿と東餅屋の間、字深沢に
文政一一年(一八二八)三月、江戸の道中奉行所に一通の書状が差出された。差出人は和田宿の問屋(大庄屋格)源右衛門ら計八人。趣意は「和田峠は中山道第一の難所で人馬ともに難渋すると聞いた江戸呉服町のかせ屋(加瀬屋)与兵衛が、施行所を設けたいと申出ていた。代理の者がきたので、案内して和田宿から二里六町登った長坂という処に適当な場所を見つけた。設置許可をお願いする。」というものである。同年四月五日には、当の与兵衛と呉服町五人組頭と思われる万助、名主代理人嘉兵衛の三人連名で、同趣旨の願いが差出された。
差出状によると、与兵衛は河内国若江郡八尾木村生れ、二一歳で江戸に出て商売に成功、今は隠居で八〇歳とある。彼はすでに文政七年、相模の箱根山で人馬施行所二ヵ所の設置許可を得たが、中山道でも碓氷峠・和田峠の二ヵ所に設置を希望し、差出状に
と、厳寒の峠越を援助したい旨を述べ、
つまり自分が幕府に千両を貸すので、その利子百両を毎年施行所の費用に回して欲しいという提案である。
設置は五月一三日に許可され、基金の実際の借主には尾張藩主がなり、利子は碓氷峠では上州側の坂本宿、和田峠では和田宿に各五〇両交付となった。
和田宿では問屋の源右衛門と年寄の清次右衛門が五月二四日、信濃の東部・北部の幕府領を管轄する中之条(現埴科郡坂城町)代官に、施行所の場所貸渡しを承知する旨の証文を出した。また江戸の与兵衛側は借受けた土地の四方に杭を打ち、「永代人馬施行」の次第ならびに施主の名を刻した札を立てたい旨、道中奉行に申しでている。建設の人足・馬の提供など一切は和田宿が負い、与兵衛からは四一両の送金があった。建物は間口一二間・奥行五間、完成は翌一二年春の頃である。
江戸時代の交通は幕府の道中奉行管轄下に、細部にわたる規則が定められ、たとえば街道筋での止宿は正規の宿場以外では禁ぜられている。にもかかわらず、宿間距離が長い難所などで、このような施設が設けられている。この施行所は交付金で運営する非営利的なものであろうから、今でいえば民間の福祉事業である。病者・足弱・道中金の乏しい者にとっては、まさに地名「接待」にふさわしい施設といえよう。
施行所は嘉永四年(一八五一)六月二二日の山抜け(山津波)で流失したが、翌五年に間口九間・奥行三間で再建され、以来明治三年(一八七〇)まで存続する。
地図を見ると、箱根にも箱根峠から三島に下る処に「接待茶屋」の地名がある。吉田東伍『大日本地名辞書』は遠江榛原郡の「
(Y・O)
初出:『月刊百科』1978年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。