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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第64回 日下
【くさか】
57

古代交通の要衝
大阪府東大阪市
2012年05月11日

大阪府と奈良県との境の生駒いこま山西麓、東大阪市の北東部に日下町がある。古代には河内国河内郡日下郷に含まれ、一帯は河内湖の草香江くさかえ(日下江)とよばれる入江で、生駒山から北にのびる山系の西側は草香山ともよばれた。草香江・草香山とも古来歌枕として知られる。

東の生駒山地・金剛山地、北の北摂山地・六甲山地、南の和泉山脈と大阪湾との間に広がる大阪平野は、大阪湾と合わせて一つの大きな凹地を形成し、瀬戸内陥没地帯の東端の一大断層盆地をなす。大阪平野は摂河泉せつかせん平野ともよばれ、近畿地方最大の広さをもち、山地に続く丘陵、その前面の台地、台地の前面に広がる沖積平野に分けられる。
二万年から九千年前には、海水面が現在より二五メートル以上低位置にあり、大阪平野は大阪湾にまで広がっていた。その後二千年から三千年の間に海水面が急激に上昇し、縄文時代前期には海面が東は生駒山地、南は東大阪市に南接する八尾市、北は北端を京都府と接する高槻市付近まで入り込んでいたと考えられている(地理学上河内湾Iとよばれる)。
次いで縄文時代前期末から同中期になると、流入する淀川と大和川が三角州を作り河内湾が縮小すると同時に、現在大阪市域中央部に南北に延びる上町台地地方に砂州が発達する(河内湾IIとよばれる)。
縄文時代晩期から弥生時代前半では砂州がさらに北へ伸びて湾口が狭くなり、縮小した水域は河内潟となる。弥生時代後期から古墳時代前期になると、河内低地の水域はより縮小して淡水湖(河内湖と名づけられる)と化し、現在大阪府と兵庫県の境を流れる神崎川沿いの水路で大阪湾に流入していたと推定され、七世紀後半から八世紀にかけては、河内低地中央の広大な湖沼に南から大和川が現在の平野川、長瀬川などのコースをとって流入し、淀川も分流して流入していた。

『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年三月条に「遡流而上かはよりさかのぼりて、ただに河内国の草香邑くさかのむらの青雲の白肩之津しらかたのつに至る」とみえ、続けて四月条に次のように記される。

東のかた膽駒山いこまのやまを踰えて、中洲うちつくにに入らむと欲す。時に長髄彦聞きて曰く、「夫れ、天神の子等来る所以は、必ず我が国を奪はむとなむ」と。即ち尽く属兵を起して、これを孔舎衛坂くさゑさかさいきり、与に会ひ戦ふ。(中略)かへりて草香津くさかのつに至りて、盾をてて雄誥をたけびす。(中略)因りて改めて其の津を号けて盾津たてつと曰ふ、今蓼津たでつと云へるは訛れるなり。

いわゆる神武東征伝説で、神武は難波なにわより大和に入る途中長髄彦と戦ったが、神武の兄五瀬命は負傷し、神武は日に向って征するのは天道に逆らうとして兵を還し、南方より迂回を図る。難波を出て水路をとって草香邑の白肩之津(草香津)に着き、孔舎衛坂から生駒山を越えて大和に入ろうとするが、これはこの坂が古代に難波方面と大和地方、とくに平城京とを結ぶ重要な交通路であったことを物語っている。『古事記』雄略天皇段にみえる「日下の直越ただごえの道」もこの路をさすと思われる。
『万葉集』巻六には「草香山を越ゆる時」という題詞を持つ神社忌寸かみこそのいみき老麿おゆまろの「直越のこの道にして押し照るや難波の海と名づけけらしも」があり、同書巻八に収める長歌に「おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば」とみえ、いずれも生駒山の上から難波を望んでの作である。奈良時代に平城京と難波津を結ぶ官道は竜田たつた道と丹比たじひ道であったが、距離は孔舎衛坂をこえる道が短いので、直道と称され官人たちにもしばしば利用された。現在のどの道にあたるかは諸説あるが、日下町を含む東大阪市北東部から越える道であることに変わりはない。

『古事記』雄略天皇段に、天皇の目にとまり、召されるのを待って八〇歳にもなった引田部の赤猪子の話が載るが、ここにみえる歌謡「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも」の日下江も日下町一帯といわれる。また、『万葉集』巻四に大伴旅人が大宰帥の任を終え入京する途次の作二首が収められる。

ここにありて筑紫や何処白雲のたなびく山の方にしあるらし
草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友無しにして

旅人が海路難波に向い上陸して筑紫を偲んで作った歌とすれば、草香江は筑紫と考えられ、「ここにありて」が草香江を指すとすれば、上陸地点近くの当地一帯にあたる。

大阪平野は古代より治水・利水の大規模な土木工事が実施されたことで知られるが、河内低地中央にあった広大な湖沼も、流入する諸川の堆積作用で陸化が進み、近世には東大阪市域北部の新開しんかい池と、その東北の深野ふこの池(大東市)が残った。宝永元年(一七〇四)、諸川に分流しながら北流し、両池に注いでいた大和川が付け替えられ、西流して大阪湾に注ぐようになると、同川分流の水量は減少して、多くは井路川となるか消滅し、両池も干拓されて新田に開発された。
昭和三〇年代以降の臨海地区埋立によって大阪平野の地形は更に改変された。古代の日下江など想像するのも不可能な変貌である。

 

(K・T)


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初出:『月刊百科』1984年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである