大阪府と奈良県との境の
東の生駒山地・金剛山地、北の北摂山地・六甲山地、南の和泉山脈と大阪湾との間に広がる大阪平野は、大阪湾と合わせて一つの大きな凹地を形成し、瀬戸内陥没地帯の東端の一大断層盆地をなす。大阪平野は
二万年から九千年前には、海水面が現在より二五メートル以上低位置にあり、大阪平野は大阪湾にまで広がっていた。その後二千年から三千年の間に海水面が急激に上昇し、縄文時代前期には海面が東は生駒山地、南は東大阪市に南接する八尾市、北は北端を京都府と接する高槻市付近まで入り込んでいたと考えられている(地理学上河内湾Iとよばれる)。
次いで縄文時代前期末から同中期になると、流入する淀川と大和川が三角州を作り河内湾が縮小すると同時に、現在大阪市域中央部に南北に延びる上町台地地方に砂州が発達する(河内湾IIとよばれる)。
縄文時代晩期から弥生時代前半では砂州がさらに北へ伸びて湾口が狭くなり、縮小した水域は河内潟となる。弥生時代後期から古墳時代前期になると、河内低地の水域はより縮小して淡水湖(河内湖と名づけられる)と化し、現在大阪府と兵庫県の境を流れる神崎川沿いの水路で大阪湾に流入していたと推定され、七世紀後半から八世紀にかけては、河内低地中央の広大な湖沼に南から大和川が現在の平野川、長瀬川などのコースをとって流入し、淀川も分流して流入していた。
『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年三月条に「
東のかた
いわゆる神武東征伝説で、神武は
『万葉集』巻六には「草香山を越ゆる時」という題詞を持つ
『古事記』雄略天皇段に、天皇の目にとまり、召されるのを待って八〇歳にもなった引田部の赤猪子の話が載るが、ここにみえる歌謡「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも」の日下江も日下町一帯といわれる。また、『万葉集』巻四に大伴旅人が大宰帥の任を終え入京する途次の作二首が収められる。
ここにありて筑紫や何処白雲のたなびく山の方にしあるらし
草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友無しにして
旅人が海路難波に向い上陸して筑紫を偲んで作った歌とすれば、草香江は筑紫と考えられ、「ここにありて」が草香江を指すとすれば、上陸地点近くの当地一帯にあたる。
大阪平野は古代より治水・利水の大規模な土木工事が実施されたことで知られるが、河内低地中央にあった広大な湖沼も、流入する諸川の堆積作用で陸化が進み、近世には東大阪市域北部の
昭和三〇年代以降の臨海地区埋立によって大阪平野の地形は更に改変された。古代の日下江など想像するのも不可能な変貌である。
(K・T)
初出:『月刊百科』1984年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである