鈴木忠志の主宰する劇団SCOTを中心にした演劇祭「
五箇山では縄文時代の遺跡が各所で発見されており、多数の土器片や石器類(御物石器を含む)が出土している。狩猟採集を中心とした生活の場として適していたのであろう。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡・遺物は現在のところ確認されておらず、以後鎌倉時代までの歴史も史料を欠いてつまびらかでない。ただ平家落人伝説が濃密に分布、落人ゆかりといわれる屋敷跡や地名があり、岐阜県境の
富山県は真宗王国といわれるほど真宗が盛んだが、五箇山はその布教拠点となった
上納がいつから始まったかは不明であり、請取状は右の三年分しか伝わっていないが、この頃には毎年の慣行になっていたのであろう。また証如の『天文日記』に五箇山衆が番衆として摂津石山本願寺に上った記事が散見する。なお応永二〇年(一四一三)一二月の越中国棟別銭免除在所注文(東寺百合文書)に「なしとか いの口方」とみえる「なしとか」は、五箇山中の
道宗は若年時には弥七といい、延徳二年(一四九〇)頃から蓮如のもとに通い、永正一三年に没したという(『実悟記』)。行徳寺には蓮如筆御文一点のほか蓮如筆御文綴(八通)が蔵されている。これは蓮如自身の御文案といえるもので、道宗に与えられたものであろう。また道宗は各地へ行って蓮如御文を書写しており、この道宗書写御文が軸装で二点、綴で二冊(一九点)伝わっている。このほか同寺には道宗が文亀元年(一五〇一)一二月に自らの心を振返って内省、改悔して二一ヵ条にわたる戒めを示した赤尾道宗覚書も残されている。上平村
五箇山中の庄川の谷には江戸時代、一三ヵ所も籠渡しがあった。『夫木抄』には「越の方に修行しありきて云々」の詞書をつけた天台座主快修の「身をすててかごの渡をせしときも君ばかりこそわすれざりしか」の和歌が収録されている。綽如・蓮如らが山深き地に布教するため、籠渡しに乗って谷川を渡る図が寺々に所蔵されており、また道宗の籠渡しにまつわる伝承もあって、五箇山中の籠渡しは中世から世に知られていた。下って蕉門の路通は元禄八年(一六九五)「城端十景」中に「ふらふらと駕の渡りやほととぎす」の句を書留めている。橘南谿の『東遊記』稿本などにも詳しく紹介され、『二十四輩順拝図会』には見事な木版画まで添えて記述されている。江戸時代五箇山は加賀藩の流刑地でもあったので、五箇山入口の利賀川・庄川合流点近くの利賀大橋のほかは橋を架けず、罪人の逃走を困難にするため故意に籠渡しのような危険な渡河を続けさせたと伝えている。
(H・M)
初出:『月刊百科』1994年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである