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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第87回 五箇山
【ごかやま】
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真宗王国の秘境
富山県東礪波郡
2013年08月23日

鈴木忠志の主宰する劇団SCOTを中心にした演劇祭「利賀とがフェスティバル」で知られる利賀村は、富山県最南西部の五箇山とよばれる地域にある。五箇山は利賀村の西のたいら村、さらにその西の上平村を含む山地で、南端の岐阜県境は一五〇〇‐一八〇〇メートル級の山がそびえ、高度の下がった北端でも七〇〇‐九〇〇メートル級の山が連なっている。この山間をしょう川やその支流の利賀川、神通じんつう川支流の百瀬ももせ川が北流、川沿いのわずかな平地や段丘・山腹に集落が形成されている。山深く、冬期には数メートルの積雪をみる。五箇山の称は室町時代から史料にみえ、江戸時代には現行三村域の総称として、また加賀藩政下の行政管轄地名としても用いられた。近代に入り、明治二二年(一八八九)の町村制施行以降は行政上の地名としては用いられなくなったが、現在でもなおこの地域をさす地名として生命を失っていない。

五箇山では縄文時代の遺跡が各所で発見されており、多数の土器片や石器類(御物石器を含む)が出土している。狩猟採集を中心とした生活の場として適していたのであろう。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡・遺物は現在のところ確認されておらず、以後鎌倉時代までの歴史も史料を欠いてつまびらかでない。ただ平家落人伝説が濃密に分布、落人ゆかりといわれる屋敷跡や地名があり、岐阜県境の人形にんぎょう山、利賀村と婦負ねい八尾やつお町の境にある金剛堂山は、信仰の山として古くから開かれたと伝えている。

富山県は真宗王国といわれるほど真宗が盛んだが、五箇山はその布教拠点となった井波いなみ瑞泉ずいせん寺に近く、早くから真宗が浸透した。五箇山の呼称が初見する史料も利賀村高田家蔵の永正一〇年(一五一三)一二月の阿弥陀如来絵像裏書である。真宗の伝播は瑞泉寺開基の本願寺五世綽如や八世蓮如と上平村西赤尾にしあかお行徳ぎょうとく寺にゆかりの深い五箇山赤尾谷出身の道宗に負うところが大で、天文五年(一五三六)八月、同七年一二月、同八年一二月の三通の証如書状(五箇山瑞願寺文書)や同二一年一〇月の五箇山衆連署申定(五箇山生田家文書)によると、この時期にはほぼ五箇山一帯が真宗教団にまとまっていたようである。三通の書状は五箇山門徒から報恩講の志として送られた糸・綿の請取状で、天文五年には糸一〇把・綿一〇把、同七年には糸一二把・綿一一把、同八年には糸一〇把・綿一三把が送られている。
上納がいつから始まったかは不明であり、請取状は右の三年分しか伝わっていないが、この頃には毎年の慣行になっていたのであろう。また証如の『天文日記』に五箇山衆が番衆として摂津石山本願寺に上った記事が散見する。なお応永二〇年(一四一三)一二月の越中国棟別銭免除在所注文(東寺百合文書)に「なしとか いの口方」とみえる「なしとか」は、五箇山中のなし・利賀のこととみられ、井口氏が地頭職を有していた。井口氏は利賀村に接する現井口いのくち村にあった井口城を本拠とする土豪で、南北朝期以降当地方に相当な勢力を有していたが、一五世紀末頃までに没落したか本拠を移したようである。一六世紀以降前田氏の越中三郡領有まで、五箇山に領主がいたとする史料はなく、五箇山はこの間本願寺が所領化していたものとみられる。

道宗は若年時には弥七といい、延徳二年(一四九〇)頃から蓮如のもとに通い、永正一三年に没したという(『実悟記』)。行徳寺には蓮如筆御文一点のほか蓮如筆御文綴(八通)が蔵されている。これは蓮如自身の御文案といえるもので、道宗に与えられたものであろう。また道宗は各地へ行って蓮如御文を書写しており、この道宗書写御文が軸装で二点、綴で二冊(一九点)伝わっている。このほか同寺には道宗が文亀元年(一五〇一)一二月に自らの心を振返って内省、改悔して二一ヵ条にわたる戒めを示した赤尾道宗覚書も残されている。上平村道善どうぜん寺も道宗にかかわる寺で、寺蔵の明応五年(一四九六)閏二月の蓮如筆御文に、道宗が毎年のように蓮如のもとを訪れたことが記されている。

五箇山中の庄川の谷には江戸時代、一三ヵ所も籠渡しがあった。『夫木抄』には「越の方に修行しありきて云々」の詞書をつけた天台座主快修の「身をすててかごの渡をせしときも君ばかりこそわすれざりしか」の和歌が収録されている。綽如・蓮如らが山深き地に布教するため、籠渡しに乗って谷川を渡る図が寺々に所蔵されており、また道宗の籠渡しにまつわる伝承もあって、五箇山中の籠渡しは中世から世に知られていた。下って蕉門の路通は元禄八年(一六九五)「城端十景」中に「ふらふらと駕の渡りやほととぎす」の句を書留めている。橘南谿の『東遊記』稿本などにも詳しく紹介され、『二十四輩順拝図会』には見事な木版画まで添えて記述されている。江戸時代五箇山は加賀藩の流刑地でもあったので、五箇山入口の利賀川・庄川合流点近くの利賀大橋のほかは橋を架けず、罪人の逃走を困難にするため故意に籠渡しのような危険な渡河を続けさせたと伝えている。

 

(H・M)

五箇山の合掌造り集落は庄川上流の白川郷のそれとともに1995年に世界文化遺産に登録された


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初出:『月刊百科』1994年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである