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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第98回 呉羽山
【くれはやま】
91

越中を東西に分かつ
富山県富山市など
2014年02月07日

天正一三年(一五八五)加賀の前田利家と抗争状態に入った佐々成政さっさなりまさに対し、越中に出陣した羽柴秀吉は、閏八月二日「呉服山」に陣取った。この時、成政は剃髪して秀吉陣所に赴いて詫びを入れ、助命を願ったと伝えられる(「越登賀えっとが三州志さんしゅうし」など)。成政は越中国東部の新川にいかわ一郡のみを残してその旧領を没収され、居城富山城は城割しろわり(城郭を破却すること)された(閏八月七日「羽柴秀吉書状」徴古文書)。

秀吉が陣取った呉服山は呉羽山の旧名で、江戸時代には先の成政の故事から道心どうしん山(「道心」は成政が仏門に入ったことを指す)とも、山麓の村名から北代きただい山・安養坊あんようぼう山などともよばれていた(「越登賀三州志」)。標高わずか七六メートル余であるが、眺望はすばらしい。東を望めば、足下に神通じんづう川が横たわり、富山市街を一望して、その背後に立山連峰が衝立のように迫って岳都の名に恥じない。
秀吉も東方を望み、立山連峰を越えた越後や信濃にまで思いを馳せたであろうか。

呉羽山の山名は、くれの国から渡ってきた織物技術者、呉服(呉織)=クレハトリ=に由来すると伝えられる(「越中志徴」など)。呉羽山の北、JR北陸本線呉羽駅の背後に姉倉比売あねくらひめ神社が鎮座しているが、この比売が機織の神とされることも、呉服伝承と無縁ではなかろう。文献では「源平盛衰記」巻二八(北国所々合戦事)に、寿永二年(一一八三)五月源義仲の部将今井兼平の軍勢が「御服山」に陣取ったとみえるのが早い。

呉服くれはとりが音読されてゴフクとなり、のち御服・五福などの字も宛てられるに至ったものと推定されている。現在と同じクレハの訓みの初出は、天明三年(一七八三)頃に成立した「三州奇談」とされ、「くれはの宮」の記載がある。

飛騨山地から北走して長々と延びる呉羽山丘陵の一帯が、越中でもっとも早くから開かれた地域のひとつであることは疑いない。丘陵周辺には考古遺跡が数多く分布し、そのひとつに丘陵南半に位置する杉谷すぎたに古墳群がある。同古墳群は丘陵縁辺部に沿って七基の古墳が並び、さらに一六基の方形周溝墓と円形周溝墓一基、土壙二基からなる杉谷A遺跡を含む。

このうち杉谷四号墳は一辺二五メートルの方形を基調として四隅が約一二メートル突出し、いわゆる四隅突出型方墳とされる。同型の古墳が初めて認められたのは、島根県瑞穂みずほ順庵原じゅうなんばら一号墳で、これに前後して同県安来やすぎ仲仙寺ちゅうせんじ古墳群の九号墳・一〇号墳が発掘され、一般に知られるようになった。杉谷四号墳は北陸地方で最初に発見された四隅突出型方墳であり、出雲地方との関係を強く意識させるきっかけとなった。また杉谷A遺跡からは北九州からもたらされたとみられる素環頭大刀やガラス製小玉が発掘されており、畿内権力が進出する以前に、北陸・出雲・北九州にまたがる日本海文化圏が存在したとする説も提出されている。

中世には丘陵東麓を御服ごふく庄が占め、北麓には万見まみ保や寒江さぶえ庄が成立していた。一方、呉羽山には刀工佐伯則重が住んでいたという。

「諸国鍛冶系図」には正宗(鎌倉末期の刀工。岡崎五郎正宗)の弟子として貞宗や義弘とともに則重があげられ、「則重 越中国御服山ニ住 五郎次郎ト云」などと記される。則重の在銘品は、福井市藤島ふじしま神社などに二振り残る。また戦国期の城館として丘陵中に白鳥しらとり城・大峪おおがけ城などがあり、「源平盛衰記」などの記載ともあわせ、古くから戦略上の要衝であったことが知られる。

寛永一六年(一六三九)の富山藩成立に際し、藩主前田利次は丘陵最北端の百塚ひゃくづかに築城することを幕府から許されたが、万治年間(一六五八‐六一)に至って築城を断念、富山城を居城とすることとなった(「富山侯家譜」加越能文庫)。この間、百塚野一帯は武士や商人の屋敷造成で賑わい、慶安三年(一六五〇)には堀田掃部・佐々伊左衛門・富田右衛門尉など上級武士の屋敷七千五〇〇歩が申請されている(「村々御印物等書上」前田家文書)。百塚築城はならなかったが、藩主歴代の墓地は百塚近くに築かれ、のち富山市民の墓地もその周辺に営まれて現在の長岡ながおか墓地に継承される。

一方、呉羽山東側の桜谷さくらだには一目千本といわれた桜の名所であった。同地に富山八代藩主前田利謙の生母自仙院が人丸ひとまる堂を創建し、藩文芸の中心地となった。南部南山なんぶなんざん(木下順庵の弟子。富山藩儒)をはじめ漢詩人はしきりに呉羽山を歌い、安政三年(一八五六)の俳書「多磨比呂飛」は、俳諧名所として呉羽山をあげている。

呉羽山一帯は古くから求心力をもつ地域であったといえる。かつまた富山県を東西に二分する境界線でもあった。東・南・西とも山に囲まれた富山県は、これら山々を源とする河川が日本海に一気に注ぎ込む。その間に典型的な扇状地も含む平野が形成され、地理的にとてもまとまりがよい。道路の整備が進み、中央付近の富山市から県内のどこへでもほぼ一時間以内に到達できるといわれる。標高こそ決して高くはないが、呉羽山丘陵は、このまとまりのよい富山県を東西に二分し、今なお丘陵の東を呉東ごとう、西を呉西ごせいと称する地域区分が根付いている。

 

(K・O)

富山県を二分する呉羽山の丘陵


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初出:『月刊百科』1993年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである