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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第68回 三橋
【みつはし】
61

日橋川北岸の渡河地
福島県耶麻郡塩川町
2012年08月31日

天正一七年(一五八九)六月五日、出羽米沢(長井)の城主伊達政宗は会津の領主蘆名義広を磐梯ばんだい山麓の摺上原すりあげはら(磨上原)に破った。居城である黒川くろかわ城(のちの鶴ヶ城、現会津若松市)に逃げ帰った義広を追って、政宗は翌六日、蘆名氏残党の籠る「金川・三橋」の城を攻め、七日には三橋城を自らの陣所としている。一方、敗将となった義広は家臣団からも見放され、同月一〇日夜には黒川城を出奔、陸奥白河に落延びた。政宗は一一日には三橋城から黒川城に移り、蘆名氏累代の所領であった陸奥会津・河沼かわぬま大沼おおぬま耶麻やまの四郡、いわゆる会津四郡をその掌中とした(『伊達天正日記』・『貞山公治家記録』など)。

政宗の陣所となった三橋城は蘆名氏一族の加納盛時の孫、三橋太郎義通の築城と伝え、江戸時代には三橋村の「未の方」に「城隍の形」を残していた(『新編会津風土記』)。三橋村は明治の初め、東隣の金川かながわ村と合併して金橋かなはし村となったため、現在は福島県耶麻郡塩川町大字金橋のうちである。金橋は会津盆地の東北部、同盆地を南北に分つ日橋につぱし川の北岸に位置する。三橋の地名が三つの橋が掛けられていたことに由来するかは定かではないが、数ある日橋川の渡河点の一ではあった。
明応九年(一五〇〇)一月、黒川城の蘆名盛高に叛旗を翻した松本対馬・勘解由の兄弟が、会津盆地北部のうるし(現耶麻郡北塩原村)綱取つなとり城に立籠ったとき、出陣した盛高は三橋で日橋川を渡り北を目差した。『塔寺八幡宮長帳』同年条裏書には「うるしへよせんとミはしへ御こへ候」とある。また江戸時代には隣接する金川村と南方対岸の河沼郡しま村(現同郡河東町)とを結んで日橋川に橋(金川橋)が掛けられていた。この橋を渡る道は、若松城下(黒川城下をのちに改めた)から北上して米沢城下へ向かう街道(会津地方では米沢街道、米沢では会津街道とよぶ)の一つで、金川通とか上街道と称されていた。

ところで、先述した伊達政宗の会津侵攻は、天正一五年末に天下人豊臣秀吉が関東・奥羽に発した惣無事令(私戦禁止令)に背くものであった。同年、九州を平定した秀吉は東国に目を向ける。このとき秀吉の眼中にあったのが相州小田原の北条氏と東北の雄伊達政宗であったことは想像に難くない。政宗侵攻後、合戦突入の危機をも孕んだ政宗対秀吉の緊張関係は、政宗が天正一八年六月に小田原攻陣中の秀吉に謁し、臣従の礼をとるまで続く。『貞山公治家記録』によると、政宗が会津を出立する前の月、天正一八年四月には小田原の伊達家臣たちから次々と書状が届き、在陣中の秀吉の動向を時々刻々と伝えていた。
同月に数多届けられた書状のなかの一通である守屋意成・小関重安連署状(伊達家文書)には次のような文言がみえる。
「長井への出入、しほ川へハまハりすき申候間、いそきいそき、ミつはしをかけさせられ候へく候」
黒川(若松)から長井(米沢)への道は「しほ川」(塩川)より三橋を通るほうが近道になるので、三橋に橋を掛けて連絡を便にせよと注意したものである。塩川(現塩川町の塩川地区)は三橋・金川と同じく日橋川北岸にあり、同所から西方約一・五キロメートルほど。永正二年(一五〇五)一〇月九日、対立していた蘆名盛高・盛滋父子それぞれの軍勢が「しほ川へ両方折立はしつめ(橋詰)」に攻め寄せ合戦しており(『塔寺八幡宮長帳』同年条裏書)、古くから橋が掛けられていたと思われる。
若松―米沢間(約五五キロほど)において、一・五キロほど東へ道筋を付替えることが、どれほどの意味があったのかは分からないが、緊迫した情勢のなかで、少しの無駄も除こうとする家臣たちの意図が伝わってくる。守屋・小関の両名は書状の最後で「返々ミつはし御かけ可然候、なにとなく可然候」と繰り返している。

金川通(上街道)は実効を旨とする戦乱時に、米沢への最短路と認められていた。しかし、徳川幕府の体制が整備されつつあった慶長一三年(一六〇八)、米沢街道の主要道の地位は金川経由から塩川経由の道(塩川通・下街道などといわれた)に変更された。同年八月二八日、会津藩主蒲生秀行の仕置奉行岡半兵衛・町野左近助が下した判物に「塩川領御蔵入に被仰付之条、かな川通其外脇道一切相止」とあり、蔵入地となった塩川に商荷を集めようとする蒲生氏の政策がうかがえる。
交通の要所に発達した集落・街区の盛衰は交通手段の変化や経路変更に左右される。戦国期、三橋氏という有力在地領主が居館を構え、会津盆地を縦断する場合には最も利便な日橋川渡河点として一帯の中核となっていた三橋村は、江戸時代以降、典型的な農村集落へと変貌を遂げた。一方、慶長期に主要道の駅所としての地位を確立した塩川村は、一七世紀半ばには日橋川―阿賀川を利用する舟運の一大基地となり、会津盆地有数の商業拠点に発展、同地区の賑わいは現塩川町の中心街区として面影を残している。現在、三橋地区では日橋川に掛かる橋はないが、塩川地区ではJR磐越西線・国道一二一号線バイパス・旧国道一二一号線と都合三つの橋が掛かっている。

 

(H・O)

左が塩川地区、右が三橋地区。その間は1.5キロメートルほど


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初出:『月刊百科』1993年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである