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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第7回 アイヌ語地名の政治学(1)

児島恭子(こじま・きょうこ)
アイヌ史専攻/『北海道の地名』執筆者
2007年08月03日

 現在、アイヌ民族の権利回復やアイヌ文化の認知を推進するという運動のなかでアイヌ語地名が語られている。地名からアイヌの生活や文化を学ぶということも先住民族としてのアイヌの存在を意識して行なわれている。アイヌ語地名は二〇〇一年に「次の世代へ引き継ぎたい北海道民全体の宝物として選ばれる北海道遺産」に指定された(注1)
 最近私はそのような「アイヌ語地名」という言葉に矛盾を感じるようになっている。アイヌの生活や文化と、「地名」というものの成り立ちを合わせて考えると、アイヌ語の「地名」は地名なのだろうかという疑問が出てくる。アイヌ語地名は、アイヌ文化の、それほど素朴な表れなのだろうか。アイヌ世界のなかで、地名とは過去において何だったのか、そして地名をめぐってどのような歴史上の経験をしてきたのか。以下、「アイヌ語地名」というカッコをつけた表記は、現在のいわゆる、というニュアンスである。

(1)アイヌ世界の地名の発生

 地名命名の歴史は、人間が日常生活において重要な地理的対象物を命名したことに始まり、文字なき社会の地名については、どの言語を使用した人間でも魚の豊富な湖を「魚の湖」と名付け、その位置や名前を記憶と口頭によって友人に伝えるという方法で使われていた、とされている。そして、文字体系を作り出さなかった人々が、記憶によって豊かな表現の地図を作成していたという(注2)。地名とは何か、地名の発生とはどういうことなのかという問いには、地名をめぐる著作の多くに簡潔にふれられている。

チノミ

チノミ

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 アイヌの人々の地名とは何か。人文地名がごく少数で、ほとんどは自然についての名付けであるのがアイヌ語地名の特色である。人文地名といっても、たとえばチノミシリ〈我々が祈る所〉(注3)とか、チランケウシ〈舟をいつも下ろす所〉のようなもので、個人名を付けた地名や数詞を付けて区画するような地名はないといってよい。アイヌの人文地名はその場所での実際の行動や追体験によることでのみ存在する意義があるのであり、言葉だけでは意味がない。アイヌの人文地名は、行動を表現しているのである。そして、自然についての名付けである「アイヌ語地名」の大部分は、川や山野などの地形を表す語彙に、その状態や利用に関する語彙を修飾語として、自然についての人間の知識を示していることがわかっている。それを統計的に明らかにし、自然地理的分類により地名の意味を考察する試みもある。動植物など生活資源のありかを示す「地名」は「その場所に行けば個々の生活資源が得られることから、アイヌの人々が生活を保持するために、ライフスタイルの中に組み込むことで成立した」(注4)という。しかし、代々その行為を継承することでのみ「地名」に意味があったとすれば、そういう暮らしのなかで資源のありかを示す「地名」が必要であろうか。もちろん、場所を指す言葉は必要であるが「地名」となって後世に残ること自体に、歴史的な何かが作用しているのではないだろうか。
 地名の発生時点では、その場所の名付けが有効であったのはその近辺に居住する人々であって、生活に必要な行動範囲の共通認識であったと考えられる。たとえばチノミシリの「チ」は「我々」であるが、「我々」の範囲は家族や同じコタンの人々(近い親族で構成される数軒の集落)、広くても同じ川筋に住む人々のことである。
 人文的にはほかのコタンとの関係上、コタンの名前が必要とされるであろう。しかし、はじめは、やはり自然地理的位置を示す言葉にすぎなかったのではなかっただろうか。川上(のコタン)、向こう側(のコタン)などの、位置を表す名称である。コタンは移動するので、コタンの名であるかぎりは固定した領域の名称にはなりえない。そうだとしたら、地名といえるのだろうか。 地形や自然環境、それにともなう人間の活動を示す地名は、現地の景観はそれぞれ固有のものであっても、語彙としては類型的であって、本来は意味のわかりやすいものであった。地形について、川の名ならたんにペッ pet 〈川〉、湖の名ならたんにト to 〈湖沼〉とのみ呼ばれていた、という段階がアイヌ世界の地名の発生であると考えられる。しかしそれでは「地名」とはいえない(注5)

 

[注]

(1)http://www.hokkaidoisan.org/ また、2001年には北海道環境生活部による『アイヌ語地名ハンドブック』『アイヌ語地名リスト』が発行され、財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構によりアイヌ文化の普及・啓発のために増刷されている。

(2)ナフタリ・カドモン『地名学──地名の知識、法律、言語──』財団法人日本地図センター/2004年。この著作はイスラエルの地名学者が国連地名標準化会議専門家グループの一員としての経験をふまえて地名学の教科書として編纂した。論題は多岐にわたっており、体系的な地名学書であるから、一般論としては非常に有益である。しかし、個々の地域の地名の歴史についての考察は別のものである。

(3)チノミシリについては山田秀三「チノミシリの意味」(『ウエネウサラ』7号/1990年6月、再録『アイヌ語地名の輪郭』草風館/1995年)に詳しい。

(4)小木亜紀子・菊地真・古谷尊彦「北海道アイヌ語地名に見られる人々と自然環境との関わり──河川・崖の地名を例として──」(『季刊 地理学』51─2/1999年)111ページ。この試みはアイヌ語地名のデータを永田方正『北海道蝦夷語地名解』(注6参照)からそのまま取って修正を施していないために、アイヌ語地名の解釈に根本的な誤りを犯しているようである。河川・沢を表した地名として600のpetと1412のnayのほかに310の地名があるとしている。代表例にmo uraraという地名を挙げているが、これは後ろにあるpetを略したいい方にすぎない。河川名の語尾にはi,pe,pもあるがそれにはふれられておらず、petでもnayでもないとしてほかにどういう地名を300以上もカウントしたのか、統計の信頼性に欠ける。

(5)すでに山田秀三は「アイヌ地名には固有名詞まで行っていないものがよく見受けられる」と記している(『北海道大百科事典』下/北海道新聞社/1981年/184ページ)。

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