「スエ」は全国各地で拾うことのできる地名のひとつである。古く『日本書紀』崇神天皇七年八月一日条に「布く天下に告ひて、大田田根子を求ぐに、即ち
このようにスエと称する地には、陶器生産に従事した部民の居住伝承や古窯跡の発見が多く、多くは陶器生産にちなむ地名と思われる。たとえば、香川県
山口県にはスエと称する地が二ヵ所知られる。一ヵ所は山口市大字陶で、いま一ヵ所は県の西南部、標高一三六・二メートルの竜王山を最高とする丘陵が連なる
半島の最南端、本山岬に近い
『延喜式』(民部下)に「長門国瓷器。大椀五合。径各九寸五分。中椀十口。径各七寸。小椀十五口。径各六寸。茶椀廿口。径各五寸。花盤卅口。径各五寸五分(下略)」とある長門国貢進の年料雑器は、当地で生産貢進されたと考えられるが、このうち瓷器を貢進しているのは長門国と尾張国の二国である。
当地の須恵窯がいつまで稼業していたかは不明であるが、下って天保から安政期(1830-60)にかけて、甚吉なる者が細々と日用品陶器を製造していたと伝える。
須恵の地名由来を『防長風土注進案』は、もと「洲江の本山」と書いていたと記す。さらに神功皇后の朝鮮出兵の時のこととして、
皇后曰く、宜なるかな此地東西は入海にして中にうち寄の洲崎帯のことく、また孤立の山木々の生茂りたる風景いと面白し、此里恵ありて万代繁栄すへしと、すへからく恵むへしとの勅意をとりて其比須恵と改む。
と、神功皇后によって須恵と改められたとの伝承を述べる。
ちなみに山口市の陶は、朝鮮より渡来した琳聖太子を祖とするといわれる大内氏の分流、六郎弘賢が本拠とした地である。弘賢は以降陶氏を名のり、中世防長の歴史に大きな足跡をのこした。琳聖太子渡来の時、土地の者が土器を造り酒を饗応して以来、この里の産業となり陶と称するようになったという(『防長風土注進案』)。
これら須恵や陶に伝えられる神功皇后朝鮮出兵伝説・琳聖太子伝説は、山口県下にひろく聞かれる伝説であるが、陶器製造技術の伝来を考えるとき推理は広がる。
陶器の生産に重要な条件は良質の粘土である。小野田の須恵の地は第三紀層からなり、良質でしかも豊富な粘土が蔵されている。須恵器を生産した古代の人々も気づいていたのであろう。
さらにこの地には豊かな資源が埋蔵されていた。近世後期より盛んに掘り出された石炭である。幕末期には小野田
現在では小野田市の一部となったが、竜王山東麓に残る須恵・
(M・K)
初出:『月刊百科』1980年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである