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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第57回 須恵
【すえ】
50

良質な粘土の産地
山口県小野田市大字小野田
2011年11月11日

「スエ」は全国各地で拾うことのできる地名のひとつである。古く『日本書紀』崇神天皇七年八月一日条に「布く天下に告ひて、大田田根子を求ぐに、即ち茅渟県ちぬのあがた陶邑すえのむらに大田田根子を得て貢る」とみえる「陶邑」は、大阪府堺市東南部の高蔵寺こうぞうじあたりに比定されている。『三代実録』貞観元年(八五九)四月二一日条に「河内・和泉両国相争焼陶伐薪之山」とあるのは「陶邑」と泉北丘陵窯跡群のある河内狭山(大阪府南河内郡狭山町)のことと考えられている。
このようにスエと称する地には、陶器生産に従事した部民の居住伝承や古窯跡の発見が多く、多くは陶器生産にちなむ地名と思われる。たとえば、香川県綾歌あやうた綾南りょうなん町陶は陶造の部民が住んで、『延喜式』(主計上)に記す、讃岐国の調物陶瓫とうぼん・水瓫・大小瓶・壺・鉢などを生産した地とされる。滋賀県蒲生がもう竜王りゅうおう町須恵は陶造の遺墟と伝え、古窯跡が発見されている。岡山県邑久おく長船おさふね町の東須恵・西須恵も、『和名抄』に記される古代の須恵郷に比定され、陶造の伝承をもつ。ちなみに吉田東伍『大日本地名辞書』は、スエ(須恵・陶・末など)を全国で一四ヵ所あげる。しかし、陶野・大須恵などの変化、江戸時代の村名や小字名として残るものを合わせれば、この数十倍にのぼると思われる。

山口県にはスエと称する地が二ヵ所知られる。一ヵ所は山口市大字陶で、いま一ヵ所は県の西南部、標高一三六・二メートルの竜王山を最高とする丘陵が連なる本山もとやま半島の小野田市域にある。本山半島の南部はかつて須恵と呼ばれ、近世には半島一帯をひろく称するようにもなった。この須恵の地名が文献に現われるのは貞治三年(一三六四)一〇月二〇日付の浄名寺知行分目録(『寺社証文』所収)で、「須恵分」とみえる。しかしこの須恵も、他に散在するスエと同様、その歴史は古い。
半島の最南端、本山岬に近い焼野やけの・東高尾・一の奈良原・西高尾の四ヵ所から古窯跡が発見され、須恵器をはじめ陶棺の一部・窯壁・粘土塊・木炭・灰土などが検出されて、須恵器の産出地であったことがわかった。
『延喜式』(民部下)に「長門国瓷器。大椀五合。径各九寸五分。中椀十口。径各七寸。小椀十五口。径各六寸。茶椀廿口。径各五寸。花盤卅口。径各五寸五分(下略)」とある長門国貢進の年料雑器は、当地で生産貢進されたと考えられるが、このうち瓷器を貢進しているのは長門国と尾張国の二国である。
当地の須恵窯がいつまで稼業していたかは不明であるが、下って天保から安政期(1830-60)にかけて、甚吉なる者が細々と日用品陶器を製造していたと伝える。

須恵の地名由来を『防長風土注進案』は、もと「洲江の本山」と書いていたと記す。さらに神功皇后の朝鮮出兵の時のこととして、

皇后曰く、宜なるかな此地東西は入海にして中にうち寄の洲崎帯のことく、また孤立の山木々の生茂りたる風景いと面白し、此里恵ありて万代繁栄すへしと、すへからく恵むへしとの勅意をとりて其比須恵と改む。

と、神功皇后によって須恵と改められたとの伝承を述べる。

ちなみに山口市の陶は、朝鮮より渡来した琳聖太子を祖とするといわれる大内氏の分流、六郎弘賢が本拠とした地である。弘賢は以降陶氏を名のり、中世防長の歴史に大きな足跡をのこした。琳聖太子渡来の時、土地の者が土器を造り酒を饗応して以来、この里の産業となり陶と称するようになったという(『防長風土注進案』)。
これら須恵や陶に伝えられる神功皇后朝鮮出兵伝説・琳聖太子伝説は、山口県下にひろく聞かれる伝説であるが、陶器製造技術の伝来を考えるとき推理は広がる。

陶器の生産に重要な条件は良質の粘土である。小野田の須恵の地は第三紀層からなり、良質でしかも豊富な粘土が蔵されている。須恵器を生産した古代の人々も気づいていたのであろう。
さらにこの地には豊かな資源が埋蔵されていた。近世後期より盛んに掘り出された石炭である。幕末期には小野田開作かいさくのごとく、海岸に堤を築き干潟を作っての採掘が行なわれるようになった。この豊かな地下資源と、開作による土地は、須恵を化学工業地帯として発展させた。明治一四年(一八八一)良質の粘土とエネルギー源の石炭を用いて我が国最初のセメント製造会社、小野田セメントが設立され、同二四年には日本舎密製造会社ができ、化学薬品の製造が行なわれるにいたった。古代に盛んに行なわれたであろう陶器生産は、化学工業の発展にともない、陶磁器が化学薬品に強いという利点から容器としての需要を促し、この地に陶磁器生産を甦らせた。
現在では小野田市の一部となったが、竜王山東麓に残る須恵・大須恵おおずえの地名と、窯業で栄える街並にいにしえの須恵をしのぶことができる。

 

(M・K)

山陽小野田市(旧小野田市)の南部、瀬戸内海に突き出した本山半島


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初出:『月刊百科』1980年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである