と詠まれて以来数多くの詠歌があり、歌枕となっている。なお「あて」は有田(在田)の古名で、主に「安諦」と書いた。
北方長峰山脈の峠、有田郡勧学院宮原庄
、宿
土民宅
」と記し(『為房卿記』)、また『中右記』の著者藤原宗忠も宮原庄に宿をとったらしく、「鶏鳴之後出宿、残月之前漸行路、先渡有田河借橋、此間天明、次登伊止賀坂」(天仁二年一〇月一八日条)と書いている。旧暦一〇月半ば過ぎの日の出といえば午前六時半頃であろうか。鶏鳴を聞いて宿を出、残月を仰いで、有田川に架けられた仮橋を渡る姿を彷彿とさせてくれる。なお、『中右記』より一世紀ほどのちの『四辻殿御記』は有田川を船で渡ったと記しており(承元四年四月二五日条)、貴顕の渡河の際には何時も仮橋が設けられたわけではないようである。
中番からの道はやがて中将姫伝説で知られる
近世には湯浅方面への近道として、藩によって整備され一里塚も設けられていた街道も、今は通る人も稀な山道となっている。院政期や鎌倉時代はもっと険阻であったろう。『平家物語』巻六(祇園女御)に、「ある時白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊国いとが坂といふ所に御輿かきすゑさせ、しばらく御休息有けり」とあり、後鳥羽院に随行した藤原定家は前記御幸記に、糸我王子を過ぎて「又凌嶮岨いとか山」と記している(建仁元年一〇月九日条)。峠の最高所は標高約二〇〇メートル。西南方には湯浅湾の広がりが望め、あえぎながらここまで登ってきた一行は、その展望に目を見張ったことであろう。
なお、応永三四年(一四二七)足利義満の側室北野殿の熊野詣に随った住心院僧正実意が記した『熊野詣日記』に「いとか坂にて御輿たつ、地下の童部あつまりまいりて、たてらんたてらんと申て、さかさまふりをたて侍る、此儀さかさま川の王子の御前にてあるへきなり」とある。「さかさま川の王子」とは湯浅町吉川にあった
糸我は有田みかんの発生地とも伝える。永享年中(一四二九‐四一)に中番村
(H・M)
初出:『月刊百科』1983年4月(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。