有田市の東部、有田川左岸の糸我町中番から有田郡湯浅町吉川へ越える、熊野街道の坂道。約一・五キロ。登りきると糸我峠で、一帯の山を糸我(鹿)山と呼んだ。糸我山は『万葉集』第七に
足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずあらなむ還り来るまで
と詠まれて以来数多くの詠歌があり、歌枕となっている。なお「あて」は有田(在田)の古名で、主に「安諦」と書いた。
糸鹿山時雨に色を染させてかつかつ織れる錦也けり
西行(山家集)
春くればいとかの山の山桜風に乱れて花ぞ散りける
源 実朝(金槐集)
北方長峰山脈の峠、蕪坂峠を越えて南下してきた熊野街道は、有田市宮原町新町で有田川を渡河、中番へ上る。宮原町一帯は平安時代後期、摂関家藤原氏の勧学院領荘園となっており、藤原氏一門の人々は熊野詣の際、ここで旅の一夜を過すのが習いとなっていたようである。永保元年(一〇八一)九月二七日、藤原為房は「申剋、着有田郡勧学院宮原庄、宿土民宅」と記し(『為房卿記』)、また『中右記』の著者藤原宗忠も宮原庄に宿をとったらしく、「鶏鳴之後出宿、残月之前漸行路、先渡有田河借橋、此間天明、次登伊止賀坂」(天仁二年一〇月一八日条)と書いている。旧暦一〇月半ば過ぎの日の出といえば午前六時半頃であろうか。鶏鳴を聞いて宿を出、残月を仰いで、有田川に架けられた仮橋を渡る姿を彷彿とさせてくれる。なお、『中右記』より一世紀ほどのちの『四辻殿御記』は有田川を船で渡ったと記しており(承元四年四月二五日条)、貴顕の渡河の際には何時も仮橋が設けられたわけではないようである。
中番からの道はやがて中将姫伝説で知られる得生寺の門前を通る。寺伝は中将姫が首を討たれそうになった「在田郡鮓ャ山」を糸我山の東北にあるといい、寺は姫の父豊成の忠臣春時の草庵の跡とする。さらに南行し、江戸時代初期に造られた一里塚を過ぎると、「くまの道」と記された石道標の立つ四辻がある。ここが中番集落の中心で、糸我地域(中番・西・須谷)の産土神稲荷神社が鎮座している。辻を真直に南へ進むと道は二股に分れ、左にとるといよいよ糸我坂へかかる。分岐点の左側山手の畑の中には、『後鳥羽院熊野御幸記』にみえる糸我王子の跡がある。今は碑のみ残るが、明治四〇年(一九〇七)稲荷神社に合祀されるまでは、道行く人が手向けるのか、花が絶えなかったという。
近世には湯浅方面への近道として、藩によって整備され一里塚も設けられていた街道も、今は通る人も稀な山道となっている。院政期や鎌倉時代はもっと険阻であったろう。『平家物語』巻六(祇園女御)に、「ある時白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊国いとが坂といふ所に御輿かきすゑさせ、しばらく御休息有けり」とあり、後鳥羽院に随行した藤原定家は前記御幸記に、糸我王子を過ぎて「又凌嶮岨いとか山」と記している(建仁元年一〇月九日条)。峠の最高所は標高約二〇〇メートル。西南方には湯浅湾の広がりが望め、あえぎながらここまで登ってきた一行は、その展望に目を見張ったことであろう。
なお、応永三四年(一四二七)足利義満の側室北野殿の熊野詣に随った住心院僧正実意が記した『熊野詣日記』に「いとか坂にて御輿たつ、地下の童部あつまりまいりて、たてらんたてらんと申て、さかさまふりをたて侍る、此儀さかさま川の王子の御前にてあるへきなり」とある。「さかさま川の王子」とは湯浅町吉川にあった逆川王子のこと。本来逆川王子で行われるべきものがいつしか糸我坂での風習に変ったことをいっている。
糸我は有田みかんの発生地とも伝える。永享年中(一四二九‐四一)に中番村楯岩の麓の神田峰にみかんが自生し結実、これを糸我・宮原二庄に分植したといい(『紀伊続風土記』)、また天正年間(一五七三‐九二)に肥後八代よりみかん樹を伝えたといわれる伊藤孫右衛門も中番地蔵堂の人という(『紀州蜜柑伝来記』)。今も栽培は盛んで、春の花の季節には一帯は馥郁と香る。
(H・M)
初出:『月刊百科』1983年4月(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。