宍道湖の南方、島根県
中世には海潮温泉一帯は皇室領庄園の
それでは海潮の地名は完全に消滅してしまったのだろうか。ここに興味深い文言がある。正和元年(一三一二)七月七日の六波羅下知状案(集古文書)にみえる「出雲国淀本庄号牛尾庄」がそれである。この下知状案によると、淀本庄は牛尾庄とも称され、鎌倉幕府は承久の乱の恩賞として中沢真氏に牛尾庄の地頭職を与えている。また嘉元四年六月一二日の関東下知状案(同文書)には中沢真氏から子息の真直に牛尾庄が譲られたことが記されており、表記の違いこそあるものの「うしお」の地名が存続していたことが知られる。
ところで淀と牛尾という呼称の相違はなぜ生じたのだろう。その理由を推測すると、庄園名を使用する主体の違いに起因するように思われる。なぜなら前述のように淀庄・淀本庄などの呼称を庄園領主側が使用したのに対し、在地支配をめざす地頭中沢氏がもっぱら牛尾庄の呼称を使用していたと考えられるからである。さらに推測を加えるなら、庄園領主側は地元で使われていた地名を無視し、淀の地名を押しつけたのではなかろうか。一般的に淀の地名で思い出されるのは、古代・中世の京都の外港として機能した山城国の淀(現京都市伏見区)で、淀は『五代集歌枕』にあげられる歌枕でもある。これに対し、牛尾の地名は古代の海潮郷を継承しており、地元で使用されていた地名としての可能性が高い。
残念ながら史料上の制約から、当時の庄民がこの地を何と呼んでいたかは不明である。しかし戦国時代になるとその呼称はほとんど牛尾となっていたらしい。これを裏付ける傍証として、永禄五年(一五六二)七月一八日に毛利元就が牛尾のうち七〇〇貫の地を山内隆通に与え(「毛利元就判物」内神社文書)、同一三年四月一四日には毛利輝元らが尼子方の牛尾弾正忠が籠る牛尾要害を攻撃したとの記録がある(「毛利元就書状」毛利家文書)。さらに天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領知付立(吉川家文書)には「七百貫 牛尾、内百貫新庄分三沢へ抜之」と記され、淀新庄の名を継承した
こうした領主と地元による庄園の呼称の相違は全国的なものなのだろうか。太田浩司氏は滋賀県
地元で使用されていたとみられる地名が出雲の場合(風土記の時代からの地名)と近江の場合(庄園の領主名が地名となる)では異なるが、いずれの場合も地元側の地名が領主側のそれを淘汰したことは間違いなかろう。こうした現象は一部地域の特徴であったかもしれないが、海潮の呼称は地元の地名とその土地に住む人々との結び付きの強さを物語っている事例と考えられるのではなかろうか。
(A・K)
初出:『月刊百科』1996年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである