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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第40回 海潮・牛尾
【うしお】
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地元の地名・領主の地名
島根県大東町
2010年05月21日

宍道しんじ湖の南方、島根県大原おおはら大東だいとう町のほぼ中央に位置する海潮温泉は、山間の静かな名湯として知られる。天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』によると、大原郡海潮郷はかつて「得塩」といわれ、神亀三年(七二六)に海潮と改称したという。同書には海潮郷について「東北のかた、須我の小川の湯淵の村の川中に温泉あり」と記され、これが現在の海潮温泉といわれる。

中世には海潮温泉一帯は皇室領庄園のよど庄となっており、海潮の地名は史料に登場しなくなる。杵築きづき大社(出雲大社)の文永八年(一二七一)の三月会相撲舞頭役結番帳(千家家文書)には、中沢氏が地頭を勤める淀本庄と鴛谷氏が地頭を勤める淀新庄がみえ、当時の淀庄は本庄と新庄に分割されていた。そして嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には智恵光ちえこう院(現京都市上京区か)領および蓮華心れんげしん院(現京都市右京区)領としての淀庄がみえ、興国元年(一三四〇)六月二五日には後村上天皇が淀本庄十分の一地頭職を菅孫三郎義綱の後継者に与えている(「後村上天皇綸旨」内神社文書)。                                     
それでは海潮の地名は完全に消滅してしまったのだろうか。ここに興味深い文言がある。正和元年(一三一二)七月七日の六波羅下知状案(集古文書)にみえる「出雲国淀本庄号牛尾庄」がそれである。この下知状案によると、淀本庄は牛尾庄とも称され、鎌倉幕府は承久の乱の恩賞として中沢真氏に牛尾庄の地頭職を与えている。また嘉元四年六月一二日の関東下知状案(同文書)には中沢真氏から子息の真直に牛尾庄が譲られたことが記されており、表記の違いこそあるものの「うしお」の地名が存続していたことが知られる。

ところで淀と牛尾という呼称の相違はなぜ生じたのだろう。その理由を推測すると、庄園名を使用する主体の違いに起因するように思われる。なぜなら前述のように淀庄・淀本庄などの呼称を庄園領主側が使用したのに対し、在地支配をめざす地頭中沢氏がもっぱら牛尾庄の呼称を使用していたと考えられるからである。さらに推測を加えるなら、庄園領主側は地元で使われていた地名を無視し、淀の地名を押しつけたのではなかろうか。一般的に淀の地名で思い出されるのは、古代・中世の京都の外港として機能した山城国の淀(現京都市伏見区)で、淀は『五代集歌枕』にあげられる歌枕でもある。これに対し、牛尾の地名は古代の海潮郷を継承しており、地元で使用されていた地名としての可能性が高い。
残念ながら史料上の制約から、当時の庄民がこの地を何と呼んでいたかは不明である。しかし戦国時代になるとその呼称はほとんど牛尾となっていたらしい。これを裏付ける傍証として、永禄五年(一五六二)七月一八日に毛利元就が牛尾のうち七〇〇貫の地を山内隆通に与え(「毛利元就判物」内神社文書)、同一三年四月一四日には毛利輝元らが尼子方の牛尾弾正忠が籠る牛尾要害を攻撃したとの記録がある(「毛利元就書状」毛利家文書)。さらに天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領知付立(吉川家文書)には「七百貫 牛尾、内百貫新庄分三沢へ抜之」と記され、淀新庄の名を継承した新庄しんじょうの地名が登場するが、すでに淀の冠称ははずされている。

こうした領主と地元による庄園の呼称の相違は全国的なものなのだろうか。太田浩司氏は滋賀県長浜ながはま市域の庄園について、一五世紀に入るとそれまで庄園領主が使用していた呼称に対し、村落側が使用する呼称が優越するようになるとして、山城石清水いわしみず八幡宮領細江ほそえ庄が八幡はちまん庄、京都祇園社領坂田さかた保が祇園保、奈良興福寺(山階寺)領坂田庄が山階やましな庄に変化した経緯を紹介している(「荘園の名が変わること」『息長里郷土資料館研究紀要』六)。古代・中世の長浜市域は近江国坂田郡に所属し、庄園や保などが密集する地域であった。こうした状況下にあって、庄園名である細江は古代の郷名を継承しており、坂田は郡名であった。太田氏は細江・坂田という呼称は庄園領主にとっては別に問題ないが、庄民にとっては庄園の密集地帯であるがゆえに、誰が領主で、どこの地域を指すのか分らないという問題を生み出すとしている。そのため地元では八幡・祇園・山階といった領主の名前を付けてそれぞれの庄園を区別し、一五世紀以後活発となる村落の台頭に伴って、地元が使う地名が領主のそれを圧倒していくと述べている。

地元で使用されていたとみられる地名が出雲の場合(風土記の時代からの地名)と近江の場合(庄園の領主名が地名となる)では異なるが、いずれの場合も地元側の地名が領主側のそれを淘汰したことは間違いなかろう。こうした現象は一部地域の特徴であったかもしれないが、海潮の呼称は地元の地名とその土地に住む人々との結び付きの強さを物語っている事例と考えられるのではなかろうか。

(A・K)


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初出:『月刊百科』1996年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである