木津の地名は古くから各地にあり、その多くが水陸交通の要地にあたる。古代には木津郷が三ヵ所あり、近江の木津郷は琵琶湖、若狭と丹後の木津郷は日本海の港津である。また摂津の大坂を流れる木津川の木津や、越後国
泉木津も木津町の大字木津・大字木津町付近にあった木津川の港津。単に木津ともいい、史料により「和泉木津」「和木津」とも記される。古代の
木津川は鈴鹿山脈の南部および
泉木津は流路変更地点の南岸に位置した。かつては木津川の流れこんでいた
奈良時代から、相楽郡
(上略)泉の河に 持ち越せる 真木の
とあるのはそれをうかがわせ、平城宮跡出土木簡に「泉□材」と記したものがある。
泉木津には材木の集積・運搬・加工などのための木屋が設けられていた。寺院の木屋のほか、官衙の木屋も置かれており、近年発掘調査された
寺院の木屋が史料にみえる早い例は、天平一九年(七四七)の「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」である。
泉木屋并薗地二町、東大路、西薬師寺木屋、南自井一段許退於北大河之限、
とあり、大安寺と薬師寺の木屋が木津川沿いに東西に並んでいたことがわかる。薬師寺に関しては、時代は下るが「今昔物語集」巻一二の「薬師寺の食堂焼けて金堂の焼けざりし語」に
この材木その河より曳き上げてこの寺の東の大門の前に三百余物ながら積みて置けり、それより泉河の津に運びて河より京に上すべき故なり
とあり、泉河の津は泉木津のことであろう。また西大寺の木屋は宝亀一一年(七八〇)の「西大寺資財流記帳」に「相楽郡泉木屋」と見える。
東大寺の木屋は宝亀九年の勅施入に起源し(「久安三年印蔵文書目録」東大寺文書)、地積は四町で木屋所と呼ばれている(天暦四年一一月二〇日付「東大寺封戸荘園並寺用注文」東南院文書)。なお安元元年(一一七五)一二月日付東大寺衆徒解案(東大寺文書)は、良弁僧正が笠置辺の木津川の磐石を取除いたので、上流からの流筏が可能になったらしいことを記している。
これら南都の各大寺は、木屋の仕事を取りしきる木屋預職を置いていた。天喜三年(一〇五五)一一月一三日付の安倍友高愁状(東大寺文書)は、東大寺の前木屋預の安倍友高が東大寺別当に復職を願ったものである。これによれば預職の任命権は寺家にあったが、世襲で任じられることが多く、預職の仕事は材木の保管と交易調進が主なものであった。保管事務には運送のほか「荒作」(加工)も含まれていた。
木屋預の支配下には木守および寄人がおり、東大寺の例でいえば木屋所の四町内に住んで雑役に従事していた。元永元年(一一一八)七月二二日付注進端書(東南院文書)によれば木守は三名であり、永暦元年(一一六〇)一〇月二五日付東大寺使俊成注進(久原文庫所蔵文書)には、木守・寄人合わせて一八人の名が記されている。彼らは四町内に耕作地も持っていた。
この東大寺木屋所の四町内には興福寺の木守も住んでいた。東大寺の寺役賦課をめぐって、大治元年(一一二六)東大寺と興福寺木守との間で争いが起っている(同年一一月一九日付「東大寺三綱申文」東大寺文書ほか)。興福寺の木屋については、文永二年(一二六五)一一月一三日および同二〇日の興福寺公文所下文案(御参宮雑々)によれば、関白一条実経の春日詣でに際し、浮橋架設や道普請が命じられている。
江戸時代にも泉木津は木津川水運の主要な港として機能していた。
(H・M)
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初出:『月刊百科』1981年3・4月合併号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである