鳥取県と島根県の県境、かつての伯耆・出雲の国境に標高一一四二・五メートルの船通山が聳えている。しかし、中国山地の脊梁部に「船が通う山」があるのは不思議な感じもする。
この疑問に対しての一つの解答が、天和二年(一六八二)成立の『出雲風土記抄』に載る山名由来である。それによると、
なぜ船通山に船を置いたかがはっきりしないが、この山の存在は古代の文献でも確認できる。『古事記』に「出雲国の
「肥の河上」とは『出雲国風土記』にみえる「出雲の大川」、すなわち現在の島根県東部を流れる
さらに幕末・維新期の成立とされる伯耆国の地誌『伯耆志』は、上古は鳥髪山の西側・東側は
いずれにしても、神話の中で神が降り立つ地は、清い流れの川上にある高い山とされており、船通山はまさにこの条件を備えていたといえよう。
船通山に降り立った素戔嗚尊は、そこで
ところで八岐大蛇退治の神話は、大蛇に象徴される水の支配に基盤を置いた野蛮な権威を打破し、稲田の象徴である奇稲田姫を守ることによって、新たな秩序を構築する英雄譚として理解されている。その一方で、八岐大蛇の姿は
鉄穴流しとは、たたら製鉄の原料となる砂鉄を水路や河川の流れを利用して、土砂から分離させる採集方法である。それでは、なぜ八岐大蛇が鉄穴流しなのか。
『古事記』に描かれた大蛇の姿は、八つの頭と八つの尾をもち、その体は八つの谷と八つの丘に及ぶ。そして赤いホオズキのような目をもち、その腹は常に血で赤く爛れていたという。
この姿は、山野にめぐらされた鉄穴流しによって、赤く濁った河川、荒れた山、土砂の堆積によって発生する洪水などを連想させはしないだろうか。このように考えれば、八岐大蛇を退治した神話は鉄穴流しによる洪水を防いだ技術の進捗を物語るものかもしれない。
船通山を間に挟んで広がる日南・横田両町の所属郡は、古くから伯耆国日野郡・出雲国
船通山の北東、日南町
しかし、印賀川流域各村の利害関係は複雑で、最上流部の阿毘縁郷四ヵ村による鉄穴流しに対し、寛延三年(一七五〇)下流の
この事件は一方で生計の糧となりうる鉄穴流しが、他方で村々の生活を脅すという相反する側面をもつことを示す一つの事例であった。八岐大蛇の幻影が、この時代にもうごめいていたような印象を与える。
鉄穴流しによる砂鉄採集およびたたら製鉄は、長くこの地方の主産業であった。しかし、明治維新後の洋鉄輸入の急増などの影響を受けて衰微し、現在は各所に鉄穴流しやたたら場の遺構を留めるにすぎない。しかし、そのような中で船通山北西麓の横田町
これはたたら製鉄の継承と技術者育成を目指したもので、鉄は美術刀剣用に使用される。素戔嗚尊の降臨した山は、今もたたらの里を見守りつづけている。
(A・K)
初出:『月刊百科』1992年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである