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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第71回 金田新田
【かねたしんでん】
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企業的新田の登場
新潟県佐渡郡小木町
2012年11月09日

佐渡島南西に突出た小木おぎ半島の中央部の台地、見崎野みさきのにある。小木半島はたんに岬とも呼ばれ、見崎・三崎とも記す。半島の北側は外岬そとみさき、南側は内岬と称し、自然集落はほとんど外岬・内岬のと呼ばれる小さな入江ごとに成立し、江戸時代には一六カ村(すべて現小木町)を数えた。見崎野はこれら集落の後背地にあたり、その山野は一六カ村組合の入会地であった。

近世以前、この山野は羽茂本郷はもちほんごう(現羽茂町)に拠点をおく地頭羽茂本間氏(羽茂殿)と吉岡よしおか(現真野町)に拠点をおく地頭吉岡本間氏(吉岡殿)の共同の牧場として利用されていた。このことで地元岬の人々の山野の利用に制限をうけたときには、野面公事のもくじ役に任ぜられた木野浦きのうら(一六カ村の一)の者が、岬の人々と羽茂殿・吉岡殿の間の調整役をつとめていた。万治元年(一六五八)の木野浦区有文書の伝えるところによると、羽茂殿・吉岡殿は、岬の人々の願いで馬留の土井を掘り、村人の利用地との境としたが、それでも馬を留めることができなかったので、期限を切って馬をつなぐことになった。そのかわり、馬の飼料代を岬の人々から徴収することにした。飼料代を徴収し、羽茂殿・吉岡殿に納めるのも野面公事役の仕事であり、公事役として給恩を得ていたという。
さて同文書によると、この年、宿根木しゅくねぎ村と田野浦たのうら村(いずれも一六カ村のうち)との間で山争論があったが、事件のあらましは、木野浦の「野むくし」(野面公事)によって佐渡奉行所に報告されている。中世以来の慣習が、近世に入ってもしばらくはつづいていたのである。しかし、この争論の際に田野浦村の者が馬留の土井を切り崩し、「野むくし」が奉行所に対して元通りにして欲しいと願い出ている。この馬留の土井の破壊行為は、岬の人々が中世的慣行を自ら崩すことを象徴しているようにもみられる。

この山野に金田新田が一村として成立したのは天保一二年(一八四一)である。開発人はまつさき(現畑野町)の廻船業者多右衛門(金田六左衛門家)で、当時佐渡奉行所の蝋燭請負人をしていた。文政一三年(一八三〇)の金田六左衛門家文書によると、多右衛門の趣旨は佐渡国産の蝋実が少なく、他国から高値で買い入れているが、生蝋にするはぜの種子を買って広大な見崎野で生産すれば、国産の品物にもなりうるし、結果的には佐渡国にとって節約となるというものであった。

多右衛門がこのように考えた背景にはどのような事情があったのであろうか。『佐渡近世史年表』をみると、宝暦九年(一七五九)に奉行所から各村へ、酒・塩・茶・たばこ・布・木綿その外一切の道具器物は、品が悪いといって他国から買い栄耀してはならない。金が国外へ流出するから、下品であっても島内産を使うこと、などの箇条書の触れが出されている。翌一〇年には他国から入る品には高い関税をかけ、佐渡から出る蓙苫莚塩魚干魚の類いには税を軽くするという役銀改めが行われた。やがて明和四年(一七六七)、不作による国中大騒動が起こり、天明・天保の飢饉が佐渡を襲っている。佐渡一国の経済不況をなんとか乗り切らねばならないという時期であったのである。

さて開発するにあたっての大きな問題は、この山野が入会地としての一六カ村の慣行が長い間つづいてきたという点であった。当時奉行所には見崎野一七四町八反歩のうち三分の一を残して御林に取立てる計画があり、村々からは野山が狭くなって生活に困るという訴えが出ていた。そこで試しに一七町歩を御林とし、年を追って村方に支障がないことが明らかとなれば、全体を御林にするということであった。多右衛門が櫨を植えたのは、まずこの御林取立のつもりの一七町歩においてであった。
天保二年、多右衛門は野山の一部を放棄した一六カ村組合の村々へ野役米を代償として支払うことで開発の同意を得ている(金田六左衛門家文書)。いっぽう開墾地へは、住宅の提供と、耕地は開発した本人がつくるという条件で百姓を募集した。こうして開発された耕地からの収穫物は、天保一〇年には櫨の実一五石をはじめ、麦・粟・蕎麦・ひえ・大豆・えん豆・大根・きび・小豆・たばこが書上げられ、五二貫文の利益が出たと奉行所に報告された(同文書)。

多右衛門について、渡部次郎氏の「佐渡国小木港の社会経済史的研究」には、「彼の性格は剛毅であった。旺盛な彼の企業心がよくこれを物語っている。奉仕・廉直が彼の美徳であった。文政五年の不作の際に、米銭を散じて困窮者を救い、佐渡奉行所から白銀十枚を賞与された」と伝えている。

 

(Y・O)

金田新田は画面中央、半島の中ほどに位置する


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初出:『月刊百科』1986年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである