佐渡島南西に突出た
近世以前、この山野は
さて同文書によると、この年、
この山野に金田新田が一村として成立したのは天保一二年(一八四一)である。開発人は
多右衛門がこのように考えた背景にはどのような事情があったのであろうか。『佐渡近世史年表』をみると、宝暦九年(一七五九)に奉行所から各村へ、酒・塩・茶・たばこ・布・木綿その外一切の道具器物は、品が悪いといって他国から買い栄耀してはならない。金が国外へ流出するから、下品であっても島内産を使うこと、などの箇条書の触れが出されている。翌一〇年には他国から入る品には高い関税をかけ、佐渡から出る蓙苫莚塩魚干魚の類いには税を軽くするという役銀改めが行われた。やがて明和四年(一七六七)、不作による国中大騒動が起こり、天明・天保の飢饉が佐渡を襲っている。佐渡一国の経済不況をなんとか乗り切らねばならないという時期であったのである。
さて開発するにあたっての大きな問題は、この山野が入会地としての一六カ村の慣行が長い間つづいてきたという点であった。当時奉行所には見崎野一七四町八反歩のうち三分の一を残して御林に取立てる計画があり、村々からは野山が狭くなって生活に困るという訴えが出ていた。そこで試しに一七町歩を御林とし、年を追って村方に支障がないことが明らかとなれば、全体を御林にするということであった。多右衛門が櫨を植えたのは、まずこの御林取立のつもりの一七町歩においてであった。
天保二年、多右衛門は野山の一部を放棄した一六カ村組合の村々へ野役米を代償として支払うことで開発の同意を得ている(金田六左衛門家文書)。いっぽう開墾地へは、住宅の提供と、耕地は開発した本人がつくるという条件で百姓を募集した。こうして開発された耕地からの収穫物は、天保一〇年には櫨の実一五石をはじめ、麦・粟・蕎麦・ひえ・大豆・えん豆・大根・きび・小豆・たばこが書上げられ、五二貫文の利益が出たと奉行所に報告された(同文書)。
多右衛門について、渡部次郎氏の「佐渡国小木港の社会経済史的研究」には、「彼の性格は剛毅であった。旺盛な彼の企業心がよくこれを物語っている。奉仕・廉直が彼の美徳であった。文政五年の不作の際に、米銭を散じて困窮者を救い、佐渡奉行所から白銀十枚を賞与された」と伝えている。
(Y・O)
初出:『月刊百科』1986年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである