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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第90回 牛の峠
【うしのとうげ】
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島津氏・伊東氏の領地争い発端地
宮崎県日南市・宮崎県北諸県郡三股町
2013年10月04日

鰐塚わにつか山地は宮崎県の南東部に標高九〇〇メートル内外の山々を連ねている。日南にちなん平野と都城みやこのじょう盆地とを東西に分かち、併せて広渡ひろと川水系・大淀おおよど川水系の分水嶺をなす。標高約七〇〇メートルの牛の峠は、この山地の南部に位置する。
江戸時代、峠の東側は飫肥おび藩伊東氏領日向国那珂なか酒谷さかたに村(現在は日南市)、西側は鹿児島藩島津氏領日向国諸県もろかた寺柱てらばしら村(現在は三股みまた町)で、牛の峠を通る鰐塚山地の尾根筋が、那珂・諸県の郡境、飫肥・鹿児島の藩境をなしていた。一七世紀前半、この境界をめぐり、飫肥・鹿児島両藩の間で約半世紀にわたる争いが繰り広げられた。一つの山並でありながら、伊東氏領側の方が、松・楠・樫・櫟・杉などの森林資源に恵まれていたことが原因という。争いのあらましは次のようなものであった。

寛永四年(一六二七)、牛の峠の東麓で飫肥藩が船材を伐り出していたところ、鹿児島藩庄内しょうない領(都城一円をさす通称)石寺いしで梶山かじやま郷(寺柱村の北西に位置。現在は三股町)の者たちが、藩境は峠を東南に越えた一之瀬いちのせの三角石を基点とし、北河内きたがわち村(酒谷村の北西に位置。現在は南那珂郡北郷きたごう町)の槻河内つきのかわち板谷河内いたやのかわちに至る谷限たにぎり(谷筋・川筋が境界)である、といって船板を差し止めた。これに対して飫肥藩は峰限みねぎり(尾根筋が境界)を主張、藩士が庄内領に乗り込んで談判に及んだが、埒はあかなかった。同一〇年幕府の巡検使が日向を通行した際、飫肥藩は実情を訴え、翌年検分が行われた。このとき牛の峠一帯は飫肥藩の主張が認められたが、槻河内・板谷河内の帰属は保留とされた。
正保元年(一六四四)幕府は各藩に国絵図の提出を求める。国絵図とは六十余州一国ごとの絵図で、村・町の所在、郡境、領主の区別、街道などが書き込まれていた。一国のうちに複数の藩(領主)が混在する場合、各藩で確認し合ったのち、有力藩(一ないし二藩)が代表して浄書し、幕府に差し出した。正保の国絵図作成では論所ろんしょ(領土争論が紛糾している地)について明記することも要請された。多くの藩が領地を分掌する日向国では、鹿児島藩が作成担当となった。各藩は互いに検討を重ねたうえ、自領の絵図を鹿児島藩に差し出した。ところが同藩が幕府に提出した正保日向国絵図では、明記を命じられた論所である槻河内・板谷河内ばかりでなく、飫肥藩領と決着したはずの牛の峠まで、すべて鹿児島藩庄内領として描かれていた。
このような経緯から、飫肥藩内では寛文年中(一六六一~七三)頃より論所について幕府公訴の声が高まる。延宝元年(一六七三)藩論として江戸出訴を決定、訴えを受けた幕府評定所は、裁判の前段として北河内村・梶山郷立ち会いのうえ、槻河内・板谷河内の絵図・山形を作成するように命じた。一方鹿児島藩は、飫肥藩に家臣を派遣して圧力をかけ、また幕閣に働きかけるなど評定中止を画策する。しかし、餃肥藩が評定所に再度訴えたため、鹿児島藩もしぶしぶ絵図・山形の作成に同意し、延宝三年には江戸評定所での審理が始まった。初回の取り調べで自藩に利の無いことを悟った鹿児島藩は、今度は梶山郷庄屋の病気(もちろん仮病)を理由として裁判延引を図るなど、再び策を弄したが、同年一一月、飫肥藩勝訴の裁決が下された。
五万余石の小藩(伊東氏)が七〇余万石の大藩(島津氏)に勝ったこの争いは、発端の地にちなみ牛の峠争論・牛の峠論山などとよんで語り継がれた。

ところで牛の峠の名称にはどんな由来があるのだろう。緩やかな稜線を持つ山嶺を牛伏うしぶせ山とか臥牛がぎゅう山とよぶ例は各地にみられる。しかし、明治前期に編まれた『日向地誌』(酒谷村の項目)には「牛ノトウゲ(中略)本村ヨリ都城ニ至ル往還嶺頂ニ通ス。実ニ鎮西一二ノ峻阪ナリ。然レトモ山麓ヨリ嶺頂マテ只上リ上リテ、嶺ヲ逾レハ又一片ニ下ル。他山ノ或ハ上り或ハ下リ、峯ヲ逾ヘ谷ヲ渉ルニ比スレハ、其労ハ却テ少ナシ」と記されており、急登ではあるが、単調な山道と意識されていたようである。
高取正男の『日本的思考の原型』によると、かつて山間の地では、現在の我々が思っている以上に牛を運輸手段として用いていたという。峻険ではあるが飫肥と都城を結ぶ最短路であった牛の峠越の道に、荷駄を付けて進む牛の姿を想像することも容易である。また藩境争論における飫肥藩側の評定所陳述のなかに、「此石ハ往古より飫肥牛・庄内牛と申伝候、嶺筋をさしはさミ飫肥牛ハ庄内の地ニおひに向ひ、庄内之牛ハ飫肥之地より庄内に向て、云云」とあって、峠の頂上に飫肥牛、庄内牛とよぶ境界石があって、これが峠の名の由来だという文言もみえる(松浦家文書)。
境界の地に置かれている石を牛石と呼ぶ例は多い。広島県御調みつぎ久井くい坂井原さかいばら地区は古くは備後国に属し、安芸国と接する要衝の地で、同所にも二つの牛石(境界石)がある。安芸牛・備後牛とよばれ、昔ここで安芸の牛と備後の牛が闘い、双方とも倒れて石となったと伝える(御調郡誌)。宮崎県の牛の峠の名称由来は不明であるが、閉じられた地(境界の地)であり、かつ開かれた地(交易の地)である、といった二重性を有する場所に牛に関連した地名・伝承が多く残されていることは興味深い。

 

(H・O)

猪之谷の文字の真西方、中央を走る破線との交点辺りが「牛の峠」


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初出:『月刊百科』1997年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである