かつての豊前国
安心院町を流域とした
同低地は、地表下に駅館川の旧河道が網の目のように残される南部の氾濫原地帯と、大きく蛇行していた河跡が認められるやや標高の低い北部の三角州地帯に区分できる。氾濫原地帯の南部は、弥生―古墳時代から古代の遺跡が集中していて、旧宇佐郡域では最も早く開発が進んだ地とみられている。この遺跡集中地の東方、北を宇佐台地、南を宇佐丘陵に挟まれた宇佐盆地には全国八幡宮社の総本宮として名高い宇佐神宮(宇佐八幡宮)も鎮座している。
駅館川低地の開発は南部から北部、上流域(氾濫原)から下流域(三角州)へと時代とともに進み、周辺にはその開発の様子を伝える地名や伝承も数多く残されている。氾濫原南部の宇佐市
辛島氏は渡来系氏族といわれ、辛島郷を苗字の地としていた。平安時代の末期には、さらに辛島田圃の北部、三角州地帯や四日市台地の高燥部にも開発の手が伸び、三角州地帯に
なお、現在、駅館川の流路は同川低地の東端、宇佐台地西方直下に沿ってほぼ直流しているが、同川河口部西岸、
ところで駅館川は古くは宇佐川とよばれていた。『日本書紀』神武天皇即位前紀によると、
一柱騰宮が設けられた地や鼻垂の拠点については諸説あって特定できないが、下って延徳三年(一四九一)書写の承和一一年(八四四)六月一七日の弥勒寺建立縁起(石清水文書)に「宇佐河」、大治五年(一一三〇)四月一四日の宇佐宮公文所問注勘状(小山田文書)に「宇佐川」などとみえ、少なくとも平安時代までは宇佐川とよばれていたようである。駅館川の呼称がいつ頃から用いられたのかは定かではないが、駅館の名は宇佐八幡宮に向かう
宇佐使とは、神護景雲年中(七六七‐七七〇)弓削道鏡が宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を襲おうとした、いわゆる道鏡天位事件を契機として恒例となった、朝廷から宇佐八幡宮に派遣される様々な勅使の総称で、元亨元年(一三二一)に中断されるまで二〇〇回を超える発遣があったといわれる。なお、天皇即位奉告の使には、和気氏の五位の者をあてるのが慣例であり、
長元三年(一〇三〇)の宇佐宮遷御仮殿日記(天理図書館所蔵文書)には「宮内卿源朝臣道方従駅館整威儀、先参新宮行事所」とあり、宇佐使は駅館で精進・潔斎をして参宮しており、駅館川は宇佐八幡宮の神域を区切るいわば祓川の役目をしていたともみられる。
また応徳二年(一〇八五)に没した橘為仲の家集『橘為仲朝臣集』には「宇佐の駅館に、みやづかさ(宮司)きむのり(公則カ)まうできて侍りしに、雪のふれば」と詞書して「手早ぶる神のしるしのあらはれてきよめの雪の降りにけるかな」と、為仲が宇佐使を務めた折の歌も収められている。しかし、一四世紀半ばに和気使が停止され、宇佐八幡宮の式年遷宮も途絶えて幕府からの使も廃れると、駅館もなくなり、「水ノ駅ノ跡タニモナシ」(宇佐宮現記)という状態になっていた。
現在、駅館川右岸(東岸)の宇佐市
(H・O)
初出:『月刊百科』1995年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである