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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第92回 駅館川
【やっかんがわ】
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大分県宇佐地方の母なる川
2013年11月01日

かつての豊前国宇佐うさ郡は、現在の大分県北部、北を周防灘に臨む宇佐市、および同市に南接する安心院あじむ町・院内いんない町の一市二町をおよその郡域としていた。駅館川はこの旧宇佐郡域を貫流する河川で、江戸時代末期の国学者、伊藤常足の著した九州全域の地誌『太宰管内志』には「此川、実に郡中の大河なり」と記されている。

安心院町を流域とした津房つぶさ川と院内町を流域とした恵良えら川は、二町と宇佐市の境界付近で合流、一川となって駅館川の本流を形成する。駅館川本流は宇佐市のほぼ中央部を北に流れて周防灘に注ぐが、長い年月の間に宇佐市内の丘陵地・台地を開析し続けた。駅館川低地とよばれるこの開析された地は、西の四日市よっかいち台地と東の宇佐台地に挟まれ、二キロメートル前後の幅をもって南北に展開し、現在は大分県下でも有数の美田地帯となっている。

同低地は、地表下に駅館川の旧河道が網の目のように残される南部の氾濫原地帯と、大きく蛇行していた河跡が認められるやや標高の低い北部の三角州地帯に区分できる。氾濫原地帯の南部は、弥生―古墳時代から古代の遺跡が集中していて、旧宇佐郡域では最も早く開発が進んだ地とみられている。この遺跡集中地の東方、北を宇佐台地、南を宇佐丘陵に挟まれた宇佐盆地には全国八幡宮社の総本宮として名高い宇佐神宮(宇佐八幡宮)も鎮座している。

駅館川低地の開発は南部から北部、上流域(氾濫原)から下流域(三角州)へと時代とともに進み、周辺にはその開発の様子を伝える地名や伝承も数多く残されている。氾濫原南部の宇佐市辛島からしま・同葛原くずわらはそれぞれ古代宇佐郡辛島郷・葛原郷の遺称地であり、その北部に広がる水田は辛島田圃の通称でよばれ、平安時代初期に辛島赤蜂が駅館川から水を取り入れる辛島井手を開削して開いた水田と伝える。

辛島氏は渡来系氏族といわれ、辛島郷を苗字の地としていた。平安時代の末期には、さらに辛島田圃の北部、三角州地帯や四日市台地の高燥部にも開発の手が伸び、三角州地帯に江島えしま別符、四日市台地地帯に平田ひらた別符が成立する。別符はそれまでの荒蕪地を国司免符や別納の符によって開発、成立した地を示すという。両別符はいずれも駅館川から取水する江島井手・平田井手の開削が開発の契機となったといい、宇佐市江須賀えすかの江島地区は江島別符の、宇佐市下高しもたかの小字別府びゅうは平田別符の遺称地とされる。

なお、現在、駅館川の流路は同川低地の東端、宇佐台地西方直下に沿ってほぼ直流しているが、同川河口部西岸、神子山新田みこやましんでんは、さらに時代の下った江戸時代末期、文化文政年中に周防灘の干潟を埋め立てて成立した新田地帯である。開発が漸次北(下流域)へと進んでいった様子がわかる。

ところで駅館川は古くは宇佐川とよばれていた。『日本書紀』神武天皇即位前紀によると、菟狭うさ(宇佐)国造の祖である菟狭津彦うさつひこ菟狭津媛うさつひめは「菟狭の川上にして、一柱騰宮あしひとつのあがりのみやを造りて」天皇を饗したといい、また同書景行紀によると、景行天皇は九州上陸に先立ち先兵として菟名手うなて武諸木たけもろき夏花なつはななどを遣わし、「菟狭の川上」に勢を張って天皇に抵抗する鼻垂はなたりなどの賊を討ったという。

一柱騰宮が設けられた地や鼻垂の拠点については諸説あって特定できないが、下って延徳三年(一四九一)書写の承和一一年(八四四)六月一七日の弥勒寺建立縁起(石清水文書)に「宇佐河」、大治五年(一一三〇)四月一四日の宇佐宮公文所問注勘状(小山田文書)に「宇佐川」などとみえ、少なくとも平安時代までは宇佐川とよばれていたようである。駅館川の呼称がいつ頃から用いられたのかは定かではないが、駅館の名は宇佐八幡宮に向かう宇佐使うさのつかいなどの宿所となった館=駅館に由来する。

宇佐使とは、神護景雲年中(七六七‐七七〇)弓削道鏡が宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を襲おうとした、いわゆる道鏡天位事件を契機として恒例となった、朝廷から宇佐八幡宮に派遣される様々な勅使の総称で、元亨元年(一三二一)に中断されるまで二〇〇回を超える発遣があったといわれる。なお、天皇即位奉告の使には、和気氏の五位の者をあてるのが慣例であり、宇佐和気使うさのわけづかいと称された。

長元三年(一〇三〇)の宇佐宮遷御仮殿日記(天理図書館所蔵文書)には「宮内卿源朝臣道方従駅館整威儀、先参新宮行事所」とあり、宇佐使は駅館で精進・潔斎をして参宮しており、駅館川は宇佐八幡宮の神域を区切るいわば祓川の役目をしていたともみられる。

また応徳二年(一〇八五)に没した橘為仲の家集『橘為仲朝臣集』には「宇佐の駅館に、みやづかさ(宮司)きむのり(公則カ)まうできて侍りしに、雪のふれば」と詞書して「手早ぶる神のしるしのあらはれてきよめの雪の降りにけるかな」と、為仲が宇佐使を務めた折の歌も収められている。しかし、一四世紀半ばに和気使が停止され、宇佐八幡宮の式年遷宮も途絶えて幕府からの使も廃れると、駅館もなくなり、「水ノ駅ノ跡タニモナシ」(宇佐宮現記)という状態になっていた。

現在、駅館川右岸(東岸)の宇佐市上田うえだ地内に駅館の字名が残るところから、宇佐駅館の所在を同所とみる向きもあるが、前掲弥勒寺建立縁起の注記に「依宇佐河之瀬号然云々、又此所名駅館也、駅路之故也」とみえ、駅館は宇佐川(駅館川)の瀬、すなわち、付近でわずかに湾曲して瀬をつくる同川左岸にあったとも考えられ、不詳である。

 

(H・O)

宇佐平野を貫流する駅館川


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初出:『月刊百科』1995年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである