栃木県西南部に位置する佐野市は、江戸時代には例幣使街道の宿場町・天明宿があった地で、同時代中頃の史料には「往古ハ天命ト云、今ハ天明ト云」と記されている。この地は、わが国初の図入り百科事典『和漢三才図会』に、西の筑前・芦屋釜と並び賞せられた、東の天明釜の産地として紹介されている。
天明釜は正長年間(一四二八~二九)から天文年間(一五三二~五五)頃のものを古天明、その後のものを後天明といい、当時の茶人たちの間で珍重された鉄製の茶の湯釜である。また、釜のみではなく、中世から近世にかけて天明で生産された梵鐘・鰐口・鳥居・刀剣などの鉄製・銅製の品々は、北関東を中心とした各地に数多く伝来し、鍋・釜などの日常品や、鋤・鍬などの農具類とともに天明鋳物の名で親しまれてきた。
天明鋳物を生産した職能集団は天明鋳物師と称され、その起源については天明土着の鋳物師を起源とする説と、河内国からの移住説とがある。後者は平将門の乱に際し、将門征討軍の長であった下野押領使藤原秀郷が、天慶二年(九三九)武器鋳造のために、河内国の鋳物師五人を現佐野市西方の寺岡村(現足利市寺岡町)に移住させたと伝えられるもので、寺岡村は金屋寺岡村と称したといわれる。
網野善彦氏は中世鋳物師の存在形態についての一連の研究(『日本中世の非農業民と天皇』所収)の中で、平安末期から鎌倉前期にかけての鋳物師は畿内を本貫の地としながらも、天皇―蔵人所牒によって諸国の自由通行権を保証された遍歴・交易を業とする商工民集団が多かったとしており、彼らを率いる惣官が多くの場合、荘官クラスの武士であったことから、鋳物師集団の武装性についても興味深い指摘を行なっている。こうした遍歴する武装職能集団の存在は、天明鋳物師の河内からの移住説を裏付ける根拠となりうるかもしれない。
平安後期に寺岡村より天明の地に移住したとされる鋳物師は、慶長七年(一六〇二)佐野信吉がその居城を現佐野市北方の唐沢山城から市街北方の春日山に移築した際、城下町形成の計画のもとに、金屋町に鋳物師集落として集住させられた。現在、その付近には金屋仲町・金屋下町・金吹町といった町名が残っている。金屋とは、鉱石を溶かしてその含有物をそれぞれ吹き分ける仕事をするための建物、すなわち製鉄所・精錬所を意味する。金屋のほか鉄屋・鋳物師屋なども、鋳物師の根拠地・工房を表す言葉と考えられるが、これらが姿を現してくるのは鎌倉後期から南北朝期にかけての時期といわれる。『大日本地名辞書』においても、直接鋳物師との関係に言及しないものも含め、大和・紀伊・越後・美濃・武蔵・陸奥・若狭などの国々に金屋の地名の存在が記載されているが、このほかにも全国各地に同種の地名の分布が知られる。
一例を挙げると、嘉吉年間(一四四一~四四)頃の若狭では、鋳物師大工は一人、細工所(金屋)も一ヵ所しかなく、国府に近い太良庄がその根拠地であったという。その後、鋳物師はその数を増し、慶長一七年一〇月一五日の紀年銘をもつ太良庄日枝神社鐘には「金屋村」(現福井県小浜市金屋)の名がみえ、天明の場合と同じく江戸初期における集住化がうかがわれる。
金屋の分布の広がりの背景として次のようなことが考えられる。先に遍歴する鋳物師集団の存在について述べたが、弘長二年(一二六二)一二月日付の蔵人所牒写(真継文書)には、守護・地頭・権門勢家の保護下に入る供御人の存在とともに、関東・北陸地方へ逃亡し、年貢・公事を未進する鋳物師の出現が指摘されている。ここには、中央、すなわち天皇の支配下から離脱し、諸国への移住・定着を図った自立した鋳物師たちの姿が想定され、遍歴から定住へという時代の変化をみることができる。他方、金屋の中でも重要とされるものが、若狭の例にみられるように国府・守護所・一宮などの近辺に集中しているという事実から、定住化が国司や守護などの明確な職人支配のもとに行なわれたという面も忘れてはならないだろう。
金屋の地名は、単に鋳物師に与えられた給免田の所在地にすぎないという場合も想定されるが、多くは何らかの形で鋳物師の根拠地・工房と関係をもつ金屋の名称が地名化したものと考えられよう。
諸国に伝わる天文二二年三月日付の鋳物師由緒書には、初めて鋳物の器を用いた天児屋根命の二字をとってその名とした鋳物師天命某が、仁平年中(一一五一~五四)に鉄燈炉の逸品を近衛天皇に献上し、その病の平癒に貢献したことを賞され、勅によって天命を天明と改め、藤原姓を与えられて朝廷に在番するようになった経緯が述べられている。先述した“往古は天命、今は天明”との相似性や天明鋳物師の由来との関連がうかがわれ、興味深い由緒書といえよう。
(A・K)
初出:『月刊百科』1988年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。