琵琶湖東岸に広がる滋賀県の穀倉地帯、
文和二年(一三五三)七月、美濃へ向う二条良基は「おいその森といふ所は、ただ杉のこずゑばかりにて、あらぬ木はさらにまじらず」と、街道よりの景観を記しており(『小島のくちすさみ』)、中世には杉の単相林だったものであろうか。しかし、文化二年(一八〇五)に成立した『近江名所図会』では杉・松・広葉樹などが混淆する社叢として描かれていて、現在の姿は名所図会のそれに近い。
奥石神社は現在、天児屋根命を祀る。しかし、古くは竈大明神などと称され、火除の神として崇められたという。やがて竈に釜の字があてられ、さらに近世には鎌の字に取り替わって鎌大明神・鎌宮神社などと記し、狩猟神・農業神としての信仰が色濃かったとされる。もっとも元来は、北方にそびえる
至徳元年(一三八四)九月の奥書をもつ「奥石神社本紀」(奥石神社文書)は奥石神社・老蘇森の由来について次のように記している。孝霊天皇五年、近江国の地面が裂け、水が湧き湖のようになって土地は荒廃した。この未曾有の災害の拡大を防ごうとした石辺(石部)大連は松や杉の苗を植えたところ、神助によってたちまちにして森となり、地を固めたという。老蘇森の始まりで、大連は神恩に感謝して森に神壇を築き大歳神御子を祀った。これが奥石神社の草創という。大連は齢百数十歳を超えても、壮年をしのぐほどであったため、老いが蘇えるの意で老蘇の字があてられたのだと伝えている。
万寿元年(一〇二四)相模守に任じられた大江公資は任国下向の途次、当地に立寄り「あづまぢのおもひでにせんほととぎす おいそのもりのよはの一こゑ」と詠じている(『後拾遺和歌集』)。公資の歌にあるように、老蘇森はホトトギスに掛けて歌われることが一般であった。しかし、老蘇の表記から、やがて思い出・老いの哀しみなどと結びつけて詠み込まれることも多くなったようである。
前述のように東海道新幹線・国道八号は老蘇森を分断しているが、この湖東の沃野を貫く両幹線路の道筋は、旧中山道(古代には東山道、中世には東海道とよばれていた)を踏襲している。当地から南西へ約一五キロ、旧中山道の南方、現蒲生郡
中世、東海道を往来する旅人は、この趣の相通う、近接する二つの名所を一組の歌枕と感じとっていたのであろうか。『金葉和歌集』にみえる「かはりゆくかがみの影をみるからに おいそのもりのなげきをぞする」(藤原師資)などは、両所を重ね合わせたイメージを喚起させる。
ところで『
湖東平野の中央を占めていた旧蒲生郡の郡域は近江国でも最も早く開かれた土地である。そして、この早期開発を担ったのは渡来人のもたらした高度の技術であったと考えられている。旧蒲生郡内の地名や古寺には渡来人との色濃いつながりを示す説話や伝承が数多く残るが、『梁塵秘抄』に載るこの歌の作者も、蒲生郡内の地名にあるいは異国のひびきを嗅ぎとって、「近江にをかしき」と歌ったのかもしれない。
(H・O)
初出:『月刊百科』1991年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである