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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第43回 舳倉島
【へぐらじま】
36

海士の島
石川県輪島市
2010年09月03日

能登半島の北端近く、輪島港の北方二〇‐二五キロの日本海上にななツ島がある。北部の大島・狩又かりまた島・竜島群と、南部の荒三子あらみこ島・烏帽子えぼし島・赤島・ 御厨みくりや島群に分かれる。森田柿園の『能登志徴』によると、古くは一つの島であったが波濤によって失われ、島根の巌石が七つ残ったという。さらに北方約二五キロ、北緯三七度五一分、東経一三六度五五分の位置に、ほぼ楕円形の舳倉島がある。周囲約七キロ、面積は一・一五平方キロ、面積に比して海抜が約三五‐六〇メートルと高い七ツ島と異なり、最高点は海抜一二・四メートルと低い。海岸線は複雑で、北岸と西岸は断崖が海に迫って板状節理を形成する。
島の歴史は古く、弥生時代前期の深湾洞ふかわんどう遺跡や、古墳時代前期から平安時代にかけての製塩土器などを出土した舳倉島シラスナ遺跡がある。七ツ島・舳倉島近海は好漁場として知られ、タイ・ブリ・カツオ、海藻類、アワビ・サザエなどの漁獲物は輪島港に水揚げされる。

越中守大伴家持が「沖つ島い行き渡りてかづくちふ鰒珠もが包みて遣らむ」(『万葉集』第一八)と詠んだ「沖つ島」は舳倉島のことであろう。『今昔物語集』巻二六第九には、加賀の人が猫ノ島に漂着して島の主のヘビを助け、来襲したムカデを退治した話が載り、「近来モ遥ニ来ル唐人ハ先、其島ニ寄テゾ、食物ヲ儲ケ、鮑・魚ナド取テ、ヤガテ其島ヨリ敦賀ニハ出ナル」と記される。また同書巻三一第二一に「能登ノ国ノ息ニ寝屋ト云フ島ナリ、其ノ島ニハ、河原ノ石ノ有様ニ、鮑ノ多ク有ナレバ、其ノ国ノ光ノ島ト云フ浦有リ、其ノ浦ニ住ム海人共モハ、其ノ鬼ノ寝屋ニ渡テゾ鮑ヲ取テ国ノ司ニハ弁ケル、(中略)亦其ヨリ彼ノ方ニ猫ノ島ト云フ島有ナリ」とあって、鬼ノ寝屋島とその沖合に猫ノ島があること、いずれもアワビ採りを業とする海士の漁場であったことなどが知られる。光ノ島は輪島港の西方にある光浦町と考えられるので、鬼ノ寝屋島は七ツ島、猫島は舳倉島にあたる。

現在舳倉島は海士あま町に所属するが、江戸時代には七ツ島とともに名舟なぶね村が領有し、アワビのほか黒海苔・ワカメ・イゴなどを採集したり、網漁を行って島役銀を納めていた。とくに黒海苔は加賀藩への献上品で、村民は御下行米を与えられて冬季の二〇日程逗留したようである。島には萱葺の海苔干立小屋が建てられていた。ほかに七ツ島ではトド猟も盛んで、寛政四年(一七九二)のピーク時には三八二頭、油四五二樽(二斗入)を産している(名舟区有文書)。名舟村の七割(「三箇国高物成帳」加越能文庫)という高率年貢も、こうした両島での稼ぎがあったことによる。
寛永年間(一六二四‐四四)のはじめ頃(一説には永禄年間)筑前宗像むなかた鐘崎かねざき(現在の福岡県玄海町)から海士が来住し、慶安二年(一六四九)鳳至ふげし町に居を定めた(現在の海士町)。江戸中期以降舳倉島付近での漁業権をめぐって、名舟村との間で争論が頻繁に起きた。はじめ一一八匁であった名舟村の島役は、寛永一一年から「あま舟入中ニ付而半役御捨免」とされた(「小物成万事指上帳」上梶文書)。海士町民は慶安元年(一六四八)から御菓子熨斗・長熨斗を御用鮑として藩へ上納している。やがて名舟村は舳倉島から撤退し、三月から九月まで海士町の海士が渡島して生活したという。島内には仮家百姓約一〇〇軒があった。七ツ島でも文化六年(一八〇九)から、八十八夜より二五日間は両村町同時猟業、二六日目から夏土用まで名舟村トド猟、その後は海士町猟とされた(名舟区有文書・『能登志徴』)。

島の南西端近くに奥津比咩神社が鎮座する。一〇世紀に成立した『延喜式』神名帳に載る鳳至郡の同名社に比定され、祭神は田心姫命(明治神社明細帳)、市杵島姫命(宝暦四年拝殿棟札)など諸説ある。大伴家持が先の短歌とともに詠じた長歌に「珠洲の海人の沖つ御神に渡りて」とみえ、海士等の崇敬を受けてきた。神社に近い海岸のシラスナ遺跡からは、前掲の土器類のほか貝殻・魚骨、ウシを含む獣骨が採集されている。土器のなかに塗彩土器が比較的多いこと、内陸から運ばれたと考えられる牛骨が検出されたことなどから、同所で何らかの祭祀儀礼も行われた可能性がある。
奥津比咩神社は江戸時代には名舟村民が護持していたと思われるが、鐘崎の海士が故郷の宗像大社の沖ノ島(現在の福岡県大島村)にみたて、宗像三神の一神である市杵島姫命を崇敬するようになったのであろう。
一方、奥津比咩神社の祭神が宗像三神に含まれること、同じく式内辺津比咩へつひめ神社に比定される輪島港に近い重蔵じゅうぞう神社の祭神に、宗像三神の田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命があることに注目する考えがある。重蔵神社と奥津比咩神社を線で結び、線上の七ツ島を中津島即ち中津宮と考え、宗像神社の辺津宮(玄海町)、中津宮・沖津宮(以上大島村)の関係との類似性が指摘されている。『今昔物語集』の説話からもうかがわれるように、古代の早い時期に大陸との交流が盛んであった能登半島において、日本海を渡り、対岸に向かう航路の守護神としての位置を占めていたとも考えられる。

(K・T)

ここからほぼ真南に約25キロで七ツ島、さらに約25キロで輪島港に至る


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初出:『月刊百科』1991年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである