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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第58回 沼田
【ぬた】
51

中世以来の一大干拓地
広島県三原市・豊田郡本郷町
2011年12月22日

沼田川は広島県の中央南部、賀茂郡豊栄町・福富町一帯の水を集め、東南に流れて瀬戸内海へ流入する。現在三原市街地南部を河口とするが、鎌倉時代、満潮時には約八キロ上流の豊田郡本郷町まで海水が入りこんでいた。泥地・湿地を意味するヌタの語が示すように、下流域は低湿地で塩入荒野といわれ、かつては水辺であったらしく、三原市に片島かたしま松江まつえ、本郷町に木々津きぎつの地名が残る。

沼田川中・下流域は平安時代後半まで沼田郡に属し、畿内勢力の影響をうけた遺跡があるなど、県下でも早くから開かれた地である。条里制の遺構も認められ、『和名抄』によればこの小範囲に今有いまり・沼田・船木ふなき真良しんら安直あちか梨羽なしわなどの郷があり、すでに古代に土地生産性の高かったことが知られる。

天慶の乱で藤原純友を追討した藤原倫実は、沼田郡内に七郷を与えられたという。その子孫と称する沼田氏は、平安末期頃にはこの地をほとんど私領化し、中央貴族(平氏関係と推定される)に寄進して沼田庄が成立した。この時期に沼田郡の郡名は消滅し、郡の大部分は北の豊田郡(一〇世紀初頭に沙田郡を改称したもので、現賀茂郡内陸部)に併合されていった。

源平の合戦後、沼田庄は平家没官領となり、新たに京都の蓮華王院が本家となったが、土肥実平を祖とする小早川氏が地頭として東国から来住、沼田氏のあとを受けて在地領主として成長していく。沼田庄は本庄と新庄からなり、本庄を小早川茂平、新庄を弟の季平が領知。前者は沼田小早川家、後者は椋梨むくなし小早川家と称し、両家とも庄内に一分地頭として庶子を分出した。

茂平は本庄の中心の本郷(本郷町)に高山たかやま城を築き、惣領家として一族を掌握、その団結と精神的支柱を求め、嘉禎元年(一二三五)に不断念仏堂(巨真山寺、現在の三原市米山寺)を建立した。そして同四年、念仏堂は将軍家の菩提を弔うために建てたと称し、堂仏餉灯油田・修理田として沼田川下流域の塩入荒野の干拓許可を得た。

小早川家文書によると、干拓は室町時代まで続けられ、造成された新田は本郷塩入新田・安直あじか塩入新田・木々津新田・中新田・市後いちじり新田・潟島かたしま新田で、これは現本郷町本郷の南部から三原市沼田東町にかけた地にあたる。沼田千町田とよばれた田園地帯が現在も広がり、当時の地頭権力の強大さがうかがえる。

干拓に大きな役割を果たしたのは、商人の資本力であった。瀬戸内海沿岸という地理的条件から、物資輸送の一大動脈である沼田川の自然堤防上には、市場が成立していた。現河口から二キロ上流南岸の沼田東町本市ほんいちはその遺称で、対岸に新市しんいちがあり、大規模な集落も形成されていた。小早川氏はこの市場を統制し、干拓の人夫賃を商人達に負担させ、富商を背景に朝鮮貿易も行なっている。しかしこの市場も、やがて三原城下町が成立すると衰退、本市の街路が名残をとどめるだけとなっている。

ヌタの地名に関して問題になるものに『日本書紀』仲哀天皇二年六月条の渟田門ぬたのとがある。同書によれば、神功皇后は、熊襲鎮圧のため西行した天皇を追って角鹿つぬが(現在の福井県敦賀市)を出帆したが、途中、渟田門で鯛が船の廻りに寄ってきた。そこで酒を注いだところ、鯛は酔って海面に浮上、それ以後、六月になると渟田門の鯛は海面に浮いてくるという。

一般に渟田門は福井県三方郡の海域に比定されるが、瀬戸内海航路に位置する三原市幸崎町・須波町と豊田郡高根島との間の青木瀬戸にあてる説もある。しかし角鹿から穴門あなと(現在の山口県)へ行くのに日本海ではなく瀬戸内海を航行するのは不自然である。

『芸藩通志』によると、青木瀬戸西方の能地のうじ堆では、春になると鯛が海面付近を浮いて泳ぐ浮鯛現象がみられ、浮鯛漁が行なわれるという。現在、幸崎町能地の漁家に「浮鯛系図」なるものが残る。江戸期のもので内容は前記神功皇后伝説を主とする。かつて出漁の漁民は「浮鯛系図」で身分証明をし、漁業権を保障されたという。

青木瀬戸を北へ抜けると右手に佐木さぎ島(三原市鷺浦町)がみえる。島の西南海岸にある巨岩には、海に面して地蔵像が刻まれている。正安二年(一三〇〇)銘のこの像は、三原市米山べいさん寺・万性まんしょう寺、愛媛県大三島の大山祇神社にある宝篋印塔と同じく、仏師念心の作。現在満潮時には像の肩まで海中に没するため、保存が検討されている。

ほぼ同時代に活躍した小早川茂平と仏師念心であるが、沼田川は近年の埋立でさらに東へ河口が移り、そこに近代工場が林立、海水にさらされる地蔵像と対照的である。

 

(K・H)


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初出:『月刊百科』1982年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである