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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第105回 勝田
【かつた】
98

失われた地名の音
岡山県勝田郡
2014年05月23日

岡山県にはおもしろい地名が多い。今のわれわれからすれば、なぜそのように読むのか合点のいかぬ地名がたくさんある。たとえば県北部の拠点都市である津山つやま市のすぐ南に久米くめ郡柵原町があるが、この町名からして読みにくい。これは「やなはら」と読むが、町内の大字地名はもっと難訓ぞろいで、表記どおりに読むと地元の方からお叱りを受けることになる。

列挙すると、八神・飯岡・書副・周佐などであり、順に「ねりがみ」「ゆうか」「かいぞえ」「すさ」と読む。津山市西隣りの久米郡中央ちゅうおう町にも越尾=「こよお」、角石祖母=「ついしそぼ」、打穴=「うたの」などの地名があり、漢字表記の読みから発音しやすいように変化したと思えるものもあれば、はたして古くからそうした表記だったのかと疑いたくなるものもある。また漢字表記が本来の地名を表わしているとすれば、その発生の由来をたずねたくなるものもある。

江戸時代に編纂された地誌類には、村名の由来を記したものも多い。先に掲げた久米郡が属していた美作国では文化年間(一八〇四‐一八)に成立した美作東部六郡の地誌『東作誌』があり、村名由来もいくつか紹介されている。書副村についていえば、慶長八年(一六〇三)の記録に「恒淵つねぶち村」とあったのに、公使の巡検の際にあまりの小村だったため台帳に書き落とされ、のちに書き添えられたことから書添村となり、さらに書副村になったとみえる。

たあいもない話だと一笑に付すこともできるが、小村であった、書き添えられたといった話は、あるいは近世初頭の書副村が置かれていた厳しい実態を反映しているのかもしれない。

もっとも「かいぞえ」という地名の読みは「恒淵」という村名表記よりももっと古くからあり(あるいは「恒淵」という村名などなかったのかもしれない)、書添・書副という表記が確定する以前は、別の文字をあてていたと考えることもできる。地名の読みががらりと変わることはかえって不自然に思えるし、地名は表記=「書添」「書副」よりも音=「かいぞえ」の方が持続したと考えられるからだ。

古代や中世に畿内の権門勢力が遠隔地にある所領の地名を、文書や日記に記した例は数多あるが、あて字やら誤記やらが入り混じり、様々に表記されている。しかし当の地元では文書で意思の疎通を図ったわけはなく、音によってその地を指し示していたわけだから、現在に伝えられる歴史資料としての地名は、一般的にいって音を尊重すべきといえよう。漢字の表記や後世の訓は、地名が本来所持していた情報を覆い隠すことがある。

地名の表記を時の政府が意図的に変える場合も多かった。律令制下にあっては和銅六年(七一三)の好字政策が知られる。この年元明天皇が畿内七道諸国の郡郷名は好字を用いよと命じ、「延喜式」民部式には諸国の郷里名は二字とし、必ず嘉字をれとみえる。こうした政策は中国の瑞祥思想の影響によるものとされるが、これによって令制下の在地支配単位である郡郷の表記はことごとく二字に改められた。若狭国遠敷おにゅう郡の場合、平城宮跡出土木簡では和銅五年一〇月まで「小丹生郡」(読みは同じ「おにゅう」)とあったのが、翌六年からは遠敷と変わっている。

美作国は和銅六年に備前国から六郡を割いて成立するが、六郡には久米郡とともに勝田郡(現在の読みは「かつた」)が含まれていた(『続日本紀』)。しかし美作分国以前の藤原宮跡から出土した木簡に「備道前(「きびのみちのくち」と読むか)国勝間田郡」と記されたものが三点ある。その後の平城宮跡および長岡京跡の出土木簡にはすべて勝田郡とあり、勝田郡が古くは勝間田郡であったこと、それが好字政策によって二字化したことが知られる。遠敷が表記は変わっても音は変わらなかったように、勝田の場合も表記だけを改めたはずだから、勝田と書いて「かつまた」あるいは「かつまだ」と読んだはずである。

令制下の勝田郡は、郡名と同一の「勝田郷」や前掲の柵原町飯岡が遺称地の「飯岡郷」をはじめ塩湯しおゆ郷・殖月うえつき郷などを合わせて一四郷から成っていた。一〇世紀に成立した『和名抄』の平安時代末の写本とされる高山寺本では飯岡郷の読みを「以保加」としており、現在の「ゆうか」の読みは「いおか」から転訛したものであろうか。

ところが、勝田郡勝田郷の場合、いささか話がややこしい。この勝田郷の遺称地は現在の勝田かつた勝央しょうおう勝間田かつまだの地とされる。つまり、郡名郷名を好字の二字としたものの、郡名の二字化は定着したが、郷名では古い三文字表記の勝間田が復活したようにも考えられるのだ。

『和名抄』の室町中期の写本という東急本では、「勝田郡」の郡名に「加豆万多」(国郡部)、勝田郷の郷名には「加都多」(郡郷部)の訓があり、これが正しければ、現在の「かつた」郡勝央町「かつまだ」とは反対に、「かつまだ」郡「かつた」郷であったと考えられる。ところが、東急本よりも古い、前出の平安時代末の写本とされる高山寺本では勝田郷の郷名に「加豆末太」(郡郷部)の訓がある(高山寺本は「国郡部」の記載を欠く)。地元での読みが「かつた」と「かつまた(だ)」で二転三転したとは考えにくく、高山寺本・東急本それぞれに誤写や錯誤があったとみるべきであろうか。

『後拾遺和歌集』に所収の平安中期の歌人藤原範永の歌や、『山家集』に収められた西行の歌には、「かつまたのいけ」が詠まれている。歌枕としての「かつまたのいけ」は、『五代集歌枕』では下野国、『八雲御抄』では下総国とするが、岡山県では地元の郡誌・町誌類が現在の勝央町勝間田付近にあった池とする。

勝央町勝間田は江戸時代には勝間田村といい、江戸初期の資料には「勝田村」の表記も見られるものの、慶長八年に勝間田村の在郷商人を移住させ、津山城下で最初に成立した町の一つが勝間田かつまだ町を称しており、「勝田郷」の系譜を引く小さな地名としての「勝田」「勝間田」は現在まで一貫して「かつまだ」とよばれていたと考えてよいだろう。

ところで、一〇世紀中葉のひと壬生忠見みぶのただみの歌に「この山のみちやかぎりとおもへどもかつまたのみゆとほきなりけり」がある。「かつまたのみゆ」は、かつては勝田郡内であった現在の英田あいだ郡美作町の湯郷ゆのごう温泉に比定される。湯郷地区と勝央町勝間田は五キロメートル以上離れており、そうすると「かつまたのみゆ」とは、「勝田郷」の温泉という意ではなく、「勝田郡」の代表的な温泉の意であった思われる。

「勝間田湯」は、詠歌ばかりでなく、『玉葉』治承二年(一一七六)三月二三日条に「美作勝間田湯」とみえ、『明月記』にも二度(安貞元年一〇月一〇日条、寛喜三年七月二二日条)登場し、広く都人に知られた温泉場であった。少なくともこの頃まで京の貴人たちも「勝田郡」を「かつまた」あるいは「かつまだ」とよんでいたのではなかろうか。

勝田の郡名の読みがいつごろ「かつた」に変わったのかは定かではない。古代の好字政策によって「勝間田」から「勝田」へと表記の変更がなされ、この変更が長い時間を経て音まで変えてしまったといえよう。勝田と表記されれば、これを「かつまた」と読むのはむずかしい。ただし、少なくとも中世までは「かつまた」または「かつまだ」と発音していたと思われる。「勝田」の表記に合わせてすぐに「かつた」に変わらなかったのは、地名の読みにおいて音の継続性は強い、ということの証左といえぬこともない。

(H・N)

古くは「かつまたのみゆ」ともよばれた岡山県の湯郷温泉

初出:『月刊百科』1988年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである