岡山県で歴史上著名な人物といえば、和気清麻呂、池田光政などとともに津田永忠の名が想い起こされる。永忠は寛永一七年(一六四〇)岡山藩士津田佐源太貞永の三男として生まれた。寛文二年(一六六二)鉄砲組歩行頭(二五〇石取)、同四年大横目(三〇〇石取)となった。元禄六年(一六九三)重二郎から佐源太に改名。三代藩主光政、四代綱政に重用され、池田家の墓所である
永忠が関係した事業の一つに田原用水の設置がある。同用水は県東部を南流する
吉井川流域の和気郡や赤磐郡には、「佐源太造り」とか「永忠普請」ということばが伝わる。閑谷学校に代表されるように、江戸時代に建造され、長く機能が低下せず構造も狂わないものを称することばで、とくに用水では井堰の分水施設、サイフォンが設けられているところで、必ずといっていいほど永忠の事績が伝えられている。
永忠の事績に関する伝承がすべて事実とは思われないが、少なくとも相当の土木知識と技術を習得した人物であったことは間違いないだろう。ところが永忠の年譜には、土木技術習得のために修学の機会を持ったことも、職務上の知識を得るために師に就いたことも記されていない。
この疑問を解く鍵の一つとして、先に述べた「佐源太造り」のことばがある。佐源太は永忠の父貞永の通称でもあるので、このことばに、永忠の事績と伝える事業のなかに貞永の事績があった可能性を指摘する説がある。貞永は光政の二男政言(鴨方藩祖)の下で物頭として仕えていた。物頭は鉄砲組・弓組などの長を意味するが、戦国時代には単に戦闘の指揮をするばかりではなく、当然陣地の構築や渡河技術などの土木技術を会得していたはずである。土木技術者としての生き方は津田家の伝統であったとも考えられる。
また津田家の「奉公書」(池田家文庫)は津田家の祖を尾張国出身としている。木曾・長良両川流域に生きる人々が、洪水に備える土木技術に習熟していたと考えるのは自然であろう。ちなみに、上田原の下流、瀬戸町
田原井堰の築造された一七世紀は、諸藩の例にもれず岡山藩でも新田開発が活発になり、用水施設の整備に力が注がれた。一般的には田原井堰もその代表的なものといわれる。しかし最終的には藩の増収に結びつくとはいえ、土木事業は回収期間の長い先行投資であり、関係地域住民に対する利益の還元行為ともいえよう。
池田光政は寛文年間に始まる日蓮宗不受不施信仰弾圧でも知られるが、不受不施への弾圧と土木事業の計画・施工を対比して、両者の対応関係を指摘する考えがある。この考えに従うと、どの場合も宗教弾圧が先行し、反発・抵抗が起きると民衆の目を土木工事に向けて、弾圧から目をそらせるという図式が読みとれる。しかも土木工事は近辺の住人に日傭銭(米)を稼がせるため、民衆を引きつけるにはかっこうの手段でもあった。寛文九年の用水工事は、前年井堰上流の
昭和五七年の
(K・T)
初出:『月刊百科』1988年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである