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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第25回 神矢田 
【かみやだ】
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神軍(かみいくさ)の鏃(やじり)降りそそぐ地
山形県飽海郡遊佐町
2009年02月06日

山形・秋田県境に位置し、東北地方第二位の標高二二三七メートルを誇る鳥海(ちょうかい)山は、西方の裾野を日本海に落とす秀麗な火山である。『三代実録』貞観一三年(八七一)五月一六日条に、同年四月八日や弘仁年中(八一〇‐八二四)の墳火に関する記載がみえ、活発な火山活動は古くから都邑にも知られ、ケガレを嫌う大物忌(おおものいみ)神の神山とされてきた。平安時代には同山が噴火したり、周辺に異変が起こるたびに大物忌神への神階昇叙が行われ、山上にある大物忌神社はいつしか出羽国一宮と崇められ、登拝口の遊佐(ゆざ)吹浦(ふくら)蕨岡(わらびがおか)、秋田県由利(ゆり)矢島(やしま)町矢島には、それぞれ里宮が置かれた。
鳥海山の南西麓一帯を占める遊佐町のほぼ中央、大字北目(きため)の神矢田遺跡は縄文時代中期から弥生時代前期にかけての集落遺跡である。標高九メートル、鳥海山の山裾が庄内平野に接する南向の緩斜面上にあり、西に庄内砂丘の松林、南に日本有数の穀倉地帯である庄内平野の眺望が開ける。遺跡中央を西流する北目堰は、鳥海山を水源とし鮭の大量溯上で有名な高瀬(たかせ)川に合流、やがて同川は吹浦川と名を変えて庄内浜で日本海に注ぐ。神矢田遺跡からは二棟の住居趾のほか、石鏃などの大量の石器や、縄文後・晩期のほとんどすべての形式がそろう土器片が採集されており、この継続性は、盛衰はあったものの同所が縄文人の住環境として極めて良好であったことを推測させる。

昭和四五年同遺跡の発掘調査で団長を務めた故村上孝之助氏の家には、正徳元年(一七一一)に北目堰で採取した旨を記す紙片貼付の石棒が伝来していた。同氏は今次の発掘で出土したスタンプ状土器の文様と伝来する石棒の把牛頭の文様が酷似することから、石棒の出土地を神矢田と断定、従来不明であった北目堰の開削年代を正徳年中と推定し、また遺跡地周辺が同堰の灌漑により田地となった所であることから、神矢田の地名は堰普請の際に出土したこれら石器に因んで命名されたものとした。遊佐町近郊では古くから石鏃を神矢石(あるいは神矢根石)=神軍の矢に用いた矢の根石の意=とよび、同遺跡の西南、藤崎(ふじさき)地区神矢道(かみやみち)でも、一八世紀後半、庄内砂丘に砂防林を育成中であった佐藤藤蔵が、一升舛で計るほどの石鏃を採集(佐藤家文書など)、一部は現在も鶴岡市の致道博物館などに保管されている。

近代考古学が確立されるまで、石鏃は天より降りそそぐものと考えられ、矢ノ根石、天狗ノ()()石、また神矢石とよんでいた。畿内政権による東北経営が未だ安定しなかった九世紀、東北開拓(侵略)の前線にあたった鳥海山麓や庄内浜に石鏃が降りそそぐこと(石器の発見)は、蝦夷の反乱に対する重大な警鐘と解されていた。『続日本後紀』承和六年(八三九)一〇月一七日条によると、同年八月、激しい雨と雷鳴が一〇日ほど続いた後、出羽国府から五〇余里離れた田川郡「西浜」に鏃・鋒様の形をした白・黒・青・赤といった色とりどりの石が多数、申し合わせたように尖端を西に向けて並んでいるのがみつかった。さっそく国司は事の次第を朝廷に言上、併せて採取した石鏃も送付したところ、朝廷は陸奥・出羽、並びに大宰府などの辺境に異変に対する注意を喚起し、神仏に対する奉幣・修法を怠らないようにとの命令を下した。さらに仁和元年(八八五)六月には「秋田城中」「飽海郡神宮寺西浜」に、同二年二月にも「飽海郡諸神社辺」に夥しい数の石鏃が降り注いだ旨が報告され、いずれも不慮の事態に対処し、諸神を恭祀するように命じている(『三代実録』仁和元年一一月二一日条など)。
現代からみれば、土中に埋没していた縄文・弥生時代の石器が、長雨によって表土が流出したために地上に現れたに過ぎないのだが、古代の人々は形態から弓箭の鏃であろうとは推察はしたものの、天上の神々が戦を起こした際に使用した鏃が降りそそいだのであり、石鏃を神与のものと考えた。前出の神矢道は六国史に載る石鏃降雨の有力な擬定地とされるが、しかし、神矢田や神矢道周辺は他の諸地域に比して縄文遺跡の分布が、突出して集中している訳ではない。このことに関して森浩一氏は、古代「石鏃降雨」に似た状況は全国各地で起こり得たのに正史記載が出羽国に限定されるのは、沿海州よりアムール河に広がる靺鞨(まっかつ)(ツングース系民族粛慎の後裔とされる)集団の激しい動きに対して無警戒の中央貴族へ、在庁官人が警告を発したもので、当時の東アジアの緊張関係全体のなかで再考する必要があると指摘する(「九世紀の石鏃発見記事とその背景」)。

なお山形県史編さん室の誉田(ほんだ)慶信氏は、古代国家領域のなかで鳥海山は北辺と意識されており、また『続日本後紀』に、承和六年、最後となった遣唐使船が南境で賊に襲われた際に大物忌神の神助により救われた(前出の石鏃降雨記事に結びつけ、同神が鏃を降らせて守ってくれた)との記載があることなどから(同七年七月二六日条)、鳥海山を神体とする大物忌神は北境の守護神(軍神)であると同時に、広く辺境を守ってケガレを国土の外へ追いやり、またケガレの侵入を未然に防ぐ神力を備えた神とされていた、との卓見を示されている(「大物忌神社研究序説」)。

(H・O)


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初出:『月刊百科』1989年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。