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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第103回 金鑽
【かなさな】
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製鉄と水の神が交わる地
埼玉県児玉郡神川町
2014年04月25日

神流かんな川は、埼玉県(武蔵国)・群馬県(上野国)・長野県(信濃国)の県境に位置する三国山(一八一八メートル)の北麓に発して、はじめは群馬県域を、その後は群馬・埼玉の両県境沿いに流れを進め、群馬県佐波さわ玉村たまむら町と埼玉県児玉こだま上里かみさと町の境界でからす川に注ぎ、神流川を合わせた烏川はすぐに利根川に合流する。この神流川の中流右岸にそびえる御嶽みたけ山(三四三・四メートル)の北東麓、埼玉県児玉郡神川かみかわみやの地に金鑽神社が鎮座する。

金鑽神社に本殿はなく、拝殿から背後の御室みむろ山(御嶽山の一峰)を神奈備かんなび山として遥拝する古い社殿様式である。御嶽山東側中腹の境内地には国の特別天然記念物に指定される「御嶽の鏡岩」があり、文化文政期に成立した紀行文『遊歴雑記』には「金鑽の神社の後の山岸に平かに差出たる大石あり、根張の大きさは土中に埋ミてその程をしらず、表へあらハれし処壱丈五尺に九尺ばかり、柿色にして石面艶よく磨たるが如く光あり、(中略)此石に向へば人影顔面の皺まで明細にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」と紹介される。梅雨の一日、筆者は御嶽の鏡岩を見学に神川町へ出かけた。

金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈カナサナノ神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽ひきり金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。

旧児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里みさと阿那志あなしは古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。さらに神社東方の同郡児玉町には金屋かなやの地名が残り、古くから鋳物師の活動が知られる。

埼玉県立博物館が所蔵する懸仏の裏面に、長享二年(一四八八)六月吉日の年紀とともに「武州児玉金屋中林家次」の陰刻があるが、中世以来の金属製美術品は郡域各地に伝えられ、金屋の天龍てんりゅう寺にある宝永八年(一七一一)に倉林氏が鋳造した銅鐘(埼玉県指定文化財)はその代表例とされる。広く知られるように、近世の鋳物師は京都真継家の支配下におかれていたが、文政一一年(一八二八)から嘉永五年(一八五二)にかけての「真継家諸国鋳物師名寄記」(真継文書)には金屋村の倉林治兵衛・中林庄右衛門らの名が載る。

こうした鋳物師集団の存在や関連地名の分布が、すぐに古代の採鉱や製鉄に結び付くものではないが、金鑽神社の周辺にこういった条件が揃うことを考慮すると、神社と製鉄との関連の深さに思いがいたる。

ところで、神流川から取り入れる九郷くごう用水は、現在の児玉郡から本庄ほんじょう市にかけての一帯を潤しているが、この用水の開削伝承にも、金鑽神社が登場する。言い伝えによると、古代、干魃や洪水に苦しめられた当地方のために国造が金鑽神社に祈願したところ、神流川に金色の大蛇が出現し、大蛇が縦横に泳ぎまわった道筋が九郷用水の流路となったという。

用水開削時期については、古代説のほかにも中世の児玉党によるとする説などもあり、明確な見解は得られていない。しかし、流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術が導入されていたことは推測される。金鑽神社北方の神流川右岸沿いに分布する青柳あおやぎ古墳群やその他の周辺古墳群の存在は、こうした技術を裏付けているといってもよいだろう。

もちろん採鉱・製鉄と用水開削は異なる分野だが、たとえば「掘削技術」を共通項とすれば、活動は同一の技術者集団によるものと考えることも可能で、その技術者集団の信仰対象が金鑽神社だったという推測も成り立つ。

筆者が訪れた金鑽神社の鳥居の横には「<武蔵二之宮> 金鑽神社」と彫られた巨大な石柱が建ち、目指す鏡岩は拝殿から三五〇メートルほどの急坂を登った御嶽山中腹にあった。約三〇度の傾斜をもつこの岩は八王子はちおうじ構造線が形成された際の断層の一つと考えられている。強い摩擦力によって岩肌が磨かれているが、かなりの部分が苔などで覆われていた。しかし、前夜の雨に濡れた岩肌の露出部分は、確かに前面の杉木立を映し出していた。鏡岩全体は保護のためか鉄柵に囲まれており、『遊歴雑記』が記すように、人影を映すことはなかったものの、同書の描写の確かさはうかがえた。鏡岩の岩質は赤鉄石英片岩で、成分中にはかなりの鉄分が含まれているという。

その後、筆者は御嶽山の山頂に登った。晴れていれば、群馬県の榛名はるな赤城あかぎの山並も眺められるというが、生憎の梅雨空。それでも山裾の金鑽神社から東方の金屋の家並、そして北方には流下する神流川と水田地帯という眼下に開ける展望は、歴史を追想するには充分なものであった。

(A・K)

初出:『月刊百科』1993年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである