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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第88回 印旛沼
【いんばぬま】
81

東京湾と結ばれた沼
2013年09月06日

千葉県最大の沼である印旛沼の周辺は、東京の通勤圏として大規模な住宅地の開発がなされ、景観は大きく変化した。しかし、沼一帯は比較的自然が残り、周辺住民の憩いの場となっている。かつての印旛沼は下総国印旛郡のほぼ中央に広がっており、周囲四七キロ、面積二〇平方キロほどであった。
現在は中央部が干拓されて北部調整池(五平方キロ)と西部調整池(五・五平方キロ)に二分され、この二つの池を印旛捷水路と中央排水路が結んでいる。北部調整池と利根川は長門ながと川で結ばれ、西部調整池には鹿島かしま川・師戸もろと川などが流入している。西部調整池は東京湾(江戸湾)ともつながり、八千代市の大和田おおわだ排水機場を境として、上流の印旛沼側を新川、下流の東京湾側を花見はなみ川と呼ぶ。

印旛沼では古くから漁猟が行われ、また、舟運や農業用水に利用されるなど、地域に恩恵を与えた一方で、洪水時には大きな被害をもたらした。近世に入り全国的に治水・新田開発が盛んに行われるようになると、印旛沼もその対象となっている。
寛文元年(一六六一)江戸幕府は下総国と常陸国の間を流れていた下利根川流域の新田開発を企て、同六年までに新利根川の開削、布佐ふさ村(現我孫子市)と布川ふかわ村(現茨城県利根町)間の利根川締切工事を一応、完了させている。耕地が潰れた常陸国河内かっち郡や下総国相馬そうま郡・香取かとり郡の村々は、その代替地として印旛沼周辺の笠神かさがみ大瀬野おおせのの両埜原を与えられ、荒蕪地を開発して多くの新田村が成立した(吉植家文書)。
しかし、この普請では手賀沼・印旛沼の排水には成功せず、また新利根川は水位が低く、舟運にも適さなかったために、同七年(「下総旧事考」では同九年)に利根川の閉塞部分を除去して再び水を流し、新利根川の取入口を埋戻した。さらに北方の羽根野はねの村(現利根町)で小貝こかい川から取水する羽根野堰を設け、この水を新利根川に入れて用水とする工事を同一〇年に完成させている。
印旛沼と江戸湾を結ぶ水路を開削して沼水の安定を図ることは、耕地の増大を図ることと同様重要な課題で、享保九年(一七二四)平戸村源右衛門が中心となって、幕府に新田開発を願い出たときには、紀州流治水技術の祖井沢為永や新設された普請役の視察を受け、公金を借用して平戸村から検見川けみがわ村(現千葉市花見川区)までの掘割普請にとりかかったが、失敗に終わった(佐倉市保管文書)。
安永九年(一七八〇)から天明六年(一七八六)にかけては老中田沼意次の音頭取りで大規模な開発が実施されたが、意次の失脚もあってやはり不成功に終わった(平山家文書)。寛政三年(一七九一)には布鎌ふかま新田(現栄町)中組重右衛門が、老中松平定信の役人衆に宛てて沼の新開発を願い出、滑川なめがわ村(現下総町)まで利根川に沿って掘割を造成し、沼水の七割を抜くことを提唱している(山田家文書)。

最後の大規模な開発は、老中水野忠邦が実施した天保一四年(一八四三)の利根川分水路印旛沼古堀筋御普請であった。これは新田開発のほか、懸案であった現在の新川・花見川にあたる掘割を造成し、印旛沼と江戸湾を結ぶことを目指すものであった。水野忠邦は領地であった惣深そうふけ新田(現印西市)の名主の干拓情報を代官を通じて仕入れ、幕府の政策としてとりあげた。この工事では出羽庄内藩・上総貝淵藩・駿河沼津藩・因幡鳥取藩・筑前秋月藩に御手伝普請が命じられている。当時、普請役は経費だけを負担する「お金手伝い」化していたが、この時は前代に復して実務が求められた。庄内藩は江戸町人で口入屋の百川屋を通じて人足を集める一方、国元からも領民を呼び寄せて掘割工事に当たらせた(致道博物館所蔵文書)。しかし水野忠邦はじき失脚し、新水路の完成には至らなかった。佐藤信淵が著した「内洋経緯記」は、忠邦の工事計画について、外国侵攻の際の江戸湾封鎖を想定し、常総・奥羽の物資を浦賀水道を通ることなく江戸に運ぶことを可能にする点を指摘、江戸防備・海防政策の観点からその意義を論じている。

第二次世界大戦後、何度か印旛沼の干拓計画が立てられ、昭和三八年(一九六三)に「印旛沼開発に関する事業実施計画」が認可された。内容は治水と利水の両方からなり、その結果大和田排水機場が同四二年に竣工。台風などの増水時、沼水を印旛疎水路(新川・花見川)を通じて東京湾に放流する仕組みができ、江戸時代以来の難題であった新川開削工事はようやく完了した。

 

(K・O)

北部調整池と西部調整池に二分される現在の印旛沼


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初出:『月刊百科』1996年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである