千葉県最大の沼である印旛沼の周辺は、東京の通勤圏として大規模な住宅地の開発がなされ、景観は大きく変化した。しかし、沼一帯は比較的自然が残り、周辺住民の憩いの場となっている。かつての印旛沼は下総国印旛郡のほぼ中央に広がっており、周囲四七キロ、面積二〇平方キロほどであった。
現在は中央部が干拓されて北部調整池(五平方キロ)と西部調整池(五・五平方キロ)に二分され、この二つの池を印旛捷水路と中央排水路が結んでいる。北部調整池と利根川は
印旛沼では古くから漁猟が行われ、また、舟運や農業用水に利用されるなど、地域に恩恵を与えた一方で、洪水時には大きな被害をもたらした。近世に入り全国的に治水・新田開発が盛んに行われるようになると、印旛沼もその対象となっている。
寛文元年(一六六一)江戸幕府は下総国と常陸国の間を流れていた下利根川流域の新田開発を企て、同六年までに新利根川の開削、
しかし、この普請では手賀沼・印旛沼の排水には成功せず、また新利根川は水位が低く、舟運にも適さなかったために、同七年(「下総旧事考」では同九年)に利根川の閉塞部分を除去して再び水を流し、新利根川の取入口を埋戻した。さらに北方の
印旛沼と江戸湾を結ぶ水路を開削して沼水の安定を図ることは、耕地の増大を図ることと同様重要な課題で、享保九年(一七二四)平戸村源右衛門が中心となって、幕府に新田開発を願い出たときには、紀州流治水技術の祖井沢為永や新設された普請役の視察を受け、公金を借用して平戸村から
安永九年(一七八〇)から天明六年(一七八六)にかけては老中田沼意次の音頭取りで大規模な開発が実施されたが、意次の失脚もあってやはり不成功に終わった(平山家文書)。寛政三年(一七九一)には
最後の大規模な開発は、老中水野忠邦が実施した天保一四年(一八四三)の利根川分水路印旛沼古堀筋御普請であった。これは新田開発のほか、懸案であった現在の新川・花見川にあたる掘割を造成し、印旛沼と江戸湾を結ぶことを目指すものであった。水野忠邦は領地であった
第二次世界大戦後、何度か印旛沼の干拓計画が立てられ、昭和三八年(一九六三)に「印旛沼開発に関する事業実施計画」が認可された。内容は治水と利水の両方からなり、その結果大和田排水機場が同四二年に竣工。台風などの増水時、沼水を印旛疎水路(新川・花見川)を通じて東京湾に放流する仕組みができ、江戸時代以来の難題であった新川開削工事はようやく完了した。
(K・O)
初出:『月刊百科』1996年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである